■『烈車戦隊トッキュウジャー』感想・劇場版■
“ライオンが牙をむき イーグルが空翔る
そうさなんでもアリゲーター”
ブログ「ものかきの繰り言」に書いた、
『烈車戦隊トッキュウジャー』感想、劇場版その他のHTML版まとめ。
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- ◆『烈車戦隊トッキュウジャー THE MOVIE ギャラクシーラインSOS』◆ (監督:竹本昇 脚本:小林靖子)
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掴みの見所は、いきなりレインボーラインに轢かれる猟犬シャドー。
SOS信号をキャッチして進路変更したレインボーラインは、ライオンの顔をした烈車と、それに銃を向けるシャドーラインの怪人を発見。
「おまえ達シャドーラインだな」
「ならばなんとする?」
「無礼者どもが! この御方こそシャドーライン宇宙方面担当、マイル伯爵!」
陛下! 物凄く大雑把ですよ陛下!
「狩りが好きでな。おまえ達、楽しめそうな獲物だ」
「どうかな? 俺たちを狩るのは、難しいと思うよ?」
不敵に笑うライトを中心に、TV版のOPを意識したと思われる線路を背景にしたカットで5人が変身した所でタイトルが入って主題歌が始まり、
クレジットを流しながらしばらくクローズとの戦闘後、強敵ナイル伯爵の狙撃から4号が5号をかばって早速おいしい。
ナイル伯爵とその忠実なる猟犬シャドーに苦戦するトッキュウジャーだが、突如、ライオン烈車が1号を吸い込んで走り去ってしまい、
後を追おうとした伯爵は皇帝陛下の呼び出しを受ける事に。
「宇宙にもキラキラは必要だと思うぜ?」
決して手に入らないものを求め続ける陛下に対し、トッキュウジャーも狩り尽くして闇の素晴らしさを見せつける、
と言い放った伯爵は退席し、幹部陣はそれぞれ一言ずつの顔見せのみで出番終了。
劇場版スペシャルという事でか、謁見の間でスポットライトが激しくクルクルしているのですが、家臣一同、
内心大変迷惑に思っていそうです。
一方、ライトのイマジネーションを動力に宇宙へ飛び立とうとするも失敗したライオン烈車にレインボーラインが合流し、
謎の烈車とその操縦者は、人類の夢が宇宙というフロンティアに熱心に注がれていたアポロ計画の時代――50年前に誕生し、
25年周期で太陽系を巡る宇宙大環状線ギャラクシーラインと、その車掌・レディと判明する。
レディ役は、クッキンアイドルとして一世を風靡し、後にプリキュアの声優ともなる福原遥(当時16歳)ですが、
演技経験の少なさを考慮してマネキンのような役にしたのか、どうにもならなかったのでいっそマネキンのような役にしようと開き直ったのか、悩ましいレベル。
「ま〜今は、宇宙ステーションが幾つかあるだけの、まだ細々としたものですけどね」
「失礼な。細々として弱いのは、人間のイマジネーションが足りないせいです。お陰で宇宙に帰る事も出来ません」
どこか無機質ながらも言動のきついレディは、レインボーラインに協力を要請。
「地上のイマジネーションが減っているのは、あなた達の責任でもありますし」
チケットくんがこの発言に激昂するが、背後で起きる揉め事をどこ吹く風でエネルギー補給(食事)していたライトは、満腹になるとレディへの協力を宣言。
「誰だって、帰りたい場所には帰りたいからな。だろ?」
今作単体における目標を、故郷の街へ帰る、というTV本編におけるトッキュウジャーの動機付けとスムーズに連結し、5人と共に外へ出たレディだが、
人々の姿に不満を口にする。
「まったく……なぜみな下ばかり見ているんです? かつてはギャラクシーラインが走るほど上を見ていたのに。
これではイマジネーションが減るのも当然です」
一方、ギャラクシーラインが宇宙に飛び立つイメージを強く具象化する為、ライトはトカッチ&ヒカリと相談しながら、
高層ビルを柱代わりとした空想のジャンプ台をスケッチして作戦を練るがレディは不満を示す。
「問題はエネルギーなんですよ。それはどうするんです?」
「あるよいっぱい。俺は、人のイマジネーションが減ってるとは思ってない」
笑顔で断言するライトに反発したレディは、時間の無駄だと呆れてその場を去ってしまうが、
ライトのスケッチに目を止めた幼稚園児達は、宇宙へと向かう空想の線路を即座に受け入れてみせる。
「昔の事は知らないけど、ライトの言うとおりだね」
「うん。今だってイマジネーションは溢れてる」
……嗚呼凄く、『トッキュウジャー』だなぁ。
放映当時、とにかく私のツボというツボに突き刺さりまくっていた『トッキュウジャー』ですが、この映画、究極的には、
このシーンだけで満足。
「よし……俺には見えた」
夢から生まれたヒーローと、ヒーローがくれた夢と、その双方を肯定しながら、いつか子供が“昨日の自分に胸を張れる、
大人という名のヒーロー”になっていく姿を描く『トッキュウジャー』は、究極的には“祈り”の物語なので。
車掌からライト達の事情を説明されたレディは再びナイル伯爵の襲撃を受けるが、そこに駆けつけるトッキュウジャー。
トカッチら4人が足止めしている間にライトはレディを連れて烈車に乗り込み、作戦通りにライオン烈車を引っ張って走り出す。途中、
クローズにポイントを切り替えられて危機に陥るが、そこに響くハーモニカの音色――。
「ここか、俺の死に場所は」
やたら演技が硬いので確認したら、公開が7月だった関係もあり、明は初の撮影参加がこの劇場版だったとの事。
TV本編における登場回の脚本も完成していなかった為、お約束のこれも台詞先行だったそうで、
背景もわからずに「俺の死に場所」を連発する、大変難解な役だったようです(笑)
ナイル伯爵の追撃が迫る中、レインボーラインはライトのイマジネーションが生み出した空へと伸びる線路に乗り込み、
ライトの指示で車掌が放水すると、空に大きな虹がかかる。その虹に子供達の注目が集まる事で、
子供達に“見える”ようになるレインボーライン。
果てしない線路の向こう側 輝いているものはなんだろう?
「列車が空飛んでる!」
「あれ、宇宙行くのかな?」
「当然だろ。宇宙列車だー!」
山越え海越え空も越えて いったいどこまで行けるんだろう?
「言ったろ? 地上のイマジネーションは減ってないって。減ってるとしたら、自分のなんじゃない?」
「え?」
「ちゃんとここで見ろ。宇宙へ帰る、烈車をな」
人々のイマジネーションがサファリ烈車に宇宙へ飛び立つ力を与えていき、ライトに促されたレディは、目ではなく心で、
大宇宙へ伸びる線路をイメージする。
くじけそうな時でも 想像すれば 不可能なんてない きっと出来る筈
「見えたか? よし! ここから先は自分の烈車で行け。大丈夫。行ける」
まだまだ加速して 描く夢は そうさーー 無限大!
サポート用のギャラクシーレッシャーシリーズをライトに渡したレディは笑顔を浮かべてライオン烈車に乗り換え、
ライトの中身はあれだし、レディも生後50年?の概念体なのですが、劇場版スペシャルという事でか、珍しくライトが少しモテています(笑)
ここまで無表情で近づきがたい雰囲気だったレディがここで笑顔を見せるというのは狙い通りでしょうが、
本編終了後のレインボーラインとは何か?というのを知った上で見て思うのは、レディの無機質さは宇宙へ向けられたイマジネーションの不足によるものであり、
とすれば表情と物真似豊かな関根車掌との対比は意図された所であったのかなと。そして、惣菜が被り物だったのは、
惣菜は“顔の無い存在”、或いは、“無限の顔を持つ存在”であったのかなと、今更ながら。
……まあ、関根車掌がどうにも持て余したままだったのは今作の短所の一つですし、今後の本編で明かされる惣菜の外道ぶりも、
フォロー不能な事に変わりはありませんが!
虹を守るべくナイルを阻んでいた6号もクライナーからはじき出されてしまうが、ライオン烈車そしてレディに、
宇宙へ飛び出すイマジネーションを与える事に成功したライトは、連結を解除すると烈車を反転させ、遂に、
クライナーを、轢く(笑)
「ナイル伯爵! 今度はこっちがおまえを狩る番だ!」
ライト達は合流し、脱線して半壊したクライナーから何とか脱出したナイル伯爵とその忠実なる猟犬シャドーを見下ろして言い放つ台詞が実に、
陽気に狂気で笑いの奥に殺意が高いトッキュウジャーです。
5人は変身すると、レディから預かったギャラクシーサファリ烈車に乗り換え、それぞれ、レッド乗り換えてライオン、
ブルー乗り換えてイーグル、イエロー乗り換えてワイルドキャット、グリーン乗り換えてアリゲーター、ピンク乗り換えてパンダ、
に追加武装。
「勝利のイマジネーション! 烈車戦隊、トッキュウジャーーサファリ!」
そもそも「電車」+「サファリ」という企画が謎ですが(同時上映作品の、「フルーツ」+「武者」に対抗したのか??)、
ライオン烈車のデザインを除くと、ここまでサファリ要素は皆無であるという強引の極みながら、イマジネーションなのです、
で概ね押し切れるのが今作の強み(笑)
トッキュウジャーは怒濤のサファリ攻撃から合体サファリバズーカで伯爵&猟犬に大ダメージを与え、パンダ最強。
なお2号イーグルのアクションが、後のジュウオウイーグルにそこはかとなく活かされている感じです。
追い詰められたナイルと猟犬は超巨大合体し、ナイルへの忠節は本物だった猟犬が、
盾にされるなどの捨て石として処理されるのではなく、主人と最後まで運命を共にする使われ方だったのは、地味に良かったところ。
「こっちが俺の死に場所だったか」
「まーた。何度も言うけど、違うよ」
並んで攻撃を仕掛ける超トッキュウオーとビルドダイオーだったが、高さだけでも優に3倍はありそうな桁外れの大きさを誇るキングナイルダーには一切の攻撃が通用せず、
揃って大ピンチ。しかしその時、存在の維持に関わるダイヤを乱してでも宇宙から戻ってきたレディがサファリ烈車で巨大ナイルの触手を轢き、
やはり、東映ヒーローにとっては「轢く」のがイニシエーションなのです。
レディは宇宙で集めた仲間の烈車をトッキュウ1号に託し、1号はギャラクシーラインを烈車変形させた宇宙ライオン、
サファリガオーでナイルダーに反撃開始。そしてトッキュウオーも6号が乗り込む事で(ビルドダイオーのエネルギーを回す事で?)戦列復帰。
「気にするな。こここそが俺の死に場所――」
「「「「違うから!!」」」」
ツッコみ続けないと、ダメになりますからね!
「見えたぞ!」
「「「「「「おまえの終着駅!!」」」」」」
トッキュウオーがサファリガオーにまたがったライディングトッキュウオーは劇場版仕様のうねうね動くCGバトルでキングナイルダーを切り刻み、
トドメはトッキュウサファリダブルキックで終点到着。
トッキュウジャーとレディは勝利のハイタッチをかわし、5人はサファリレッシャーを返却して、レディの宇宙への帰還を見送る。
「ありがとう。皆さんのおかげでまた、イマジネーションを信じる事ができます。人はいつか、
もっと自由に宇宙を行けるようになるでしょう。その時を待ってます。宇宙で」
ギャラクシーラインは再び宇宙へと走り去っていき、強く信じる事で自分を世界を変えていくという構造を持つ今作が、
映画単体として、“信じられなくなってしまった者を救う物語”になっているのが秀逸。
それこそ、ヒーローの役割であるわけで。
また、TV本編への影響を最小限に収められる「宇宙」という要素を持ち込みつつ、最終的にそれをとびっきりの未来と繋げる事で、
イマジネーションの意味を描き、TV本編のテーゼと違和感なく連結したのもお見事でした。
TV本編1.5話分程度の尺(30分)で、本編とある程度切り離し可能な物語を展開した上でゲストと劇場版スペシャル販促を詰め込まないといけないというハードルから、
あまり期待しないで見たのですが、ばっちり『トッキュウジャー』していた上で、まとまりが良くて面白かったです。
販促要素をイマジネーション力技でねじ伏せたのは若干ズルいと思いつつ、改めて『トッキュウジャー』の自分のツボへの刺さり具合を確認したのでありました。好きだなぁ。
- ◆『烈車戦隊トッキュウジャーvsキョウリュウジャー THE MOVIE』◆ (監督:渡辺勝也 脚本:小林靖子)
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キョウリュウジャーはブレイブで背中に爆発を出しそうだし、トッキュウジャーはそれでコケ芸しそうだな、という納得感。
創造主デビウスが、ギャラクシーラインのターミナルに取り憑いて地球に飛来。
夏映画のゲストキャラであったレディから連絡を受けてターミナルの元へ向かったトッキュウジャーだが謎の敵に手も足も出ず、
そこに現れた「聞いて驚け!」な地上最強の勇者達に助けられる事に。
「俺は桐生ダイゴ。キングって呼んでくれ!」
髪はさっぱりしたが、キングはやっぱりキングであった……という、戦隊恒例冬のコラボ映画。
見所は、うっちー(キョウリュウゴールド)がたいそうのおにいさんノリのクロックシャドーと遭遇して交戦している所に現れる虹野明。
「ここか。俺の死に場所は」
「死に場所……」
「あ、ザラムくーん! 君はまだ死に場所さがしてんのかーい」
「人知れず戦って消える……。それが俺、虹野明だ」
「なんという侍魂……!」
変身したトッキュウ6号は、恒例の武器投げ。
「武器さえいらぬというのか……!」
うっちー、ズルいな、うっちー……。
という所が一番面白かったです(笑)
コンセプトでありながら何かと無理の出る戦隊共演に説得力を持たせる為に、トッキュウジャーの攻撃はデビウス軍には通用せず、
逆にキョウリュウジャーの攻撃はシャドーラインに通用しない、という設定で二つの戦隊が存在する必要性を描き、
それぞれの装備(烈車と獣電池)を交換する事で両方の力を得る、という形でギミックを活用する、
というアイデアは良かったのですが……なにぶんメインとなるトッキュウジャーが、
致命的に他の戦隊と絡ませにくい設定である為、全体的にどうにもぎくしゃく。
その酷い設定に真っ当に怒りを燃やしたキングがトッキュウジャーを気遣いながら戦い、
「ばかやろぉ! おまえ本当に、ただの遠足のつもりかぁ?!」
「ダイゴ! これが遠足なら、家に帰るまでが遠足なんだよ! それに、生きて帰るまでが戦いなんだよ!」
ライトと互いに檄を飛ばす決戦などは悪くありませんでしたが、それ以外は双方の化学反応も弱く、とにかく相性が悪かったな、と。
あと、大仰な設定の割に創造主デビウスが物凄く格好悪いのもマイナスで、物足りなさの目立つ映画でした。
- ◆『手裏剣戦隊ニンニンジャーvsトッキュウジャー The Movie 忍者・イン・ワンダーランド』◆ (監督:中澤祥次郎 脚本:下山健人)
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まさかの、バナナが伏線。
古びた電車の座席で目を覚ました天晴は、ラストニンジャ見習い一同揃ってニンジャランドに向かっている途中だった事を思い出すが、
不思議な駅を通り過ぎる度にコスプレワールドに取り込まれ、仲間達が次々と消えてしまう……。
天晴目覚める→会話→コスプレ→天晴目覚める……をループさせ、劇場版らしいバラエティ要素で興味を引きつつミステリアスに展開する、
というなかなか面白い導入。天晴が電車の座席で目覚めるシーンは恐らく『烈車戦隊トッキュウジャー』第1話のオマージュだと思われ、
『トッキュウ』『ニンニン』共にパイロット版監督を務めた中澤監督が、うまく両作品を結合。
ニンニンジャーの6人は実は妖怪電車に囚われており、車掌からの依頼で救援に来たトッキュウジャーに助け出されるも、
天晴だけが目的地であるニンジャランドへと連れ去られてしまう。そこで待ち受けていたのは、熱狂的なニンジャフリークの闇博士。
姿を消したシャドーラインに所属する闇博士はその力で闇アカニンジャーを生み出し、出涸らしとなった天晴は消滅の危機を迎えてしまう、
というのが劇場版ならではのスペクタクル。
天晴とライトのやり取りにおいて『トッキュウジャー』終盤で脱線気味だった闇1号の件を拾い、
救出に成功した残りメンバーのサイドでは「家族」「みんな一緒」「帰る」というキーワードを用いて『ニンニン』と『トッキュウ』を巧く繋げ、
中澤監督の参加も大きいでしょうが、動揺するレベルで下山さんがいい仕事。
改めて下山さんは、変にナンセンスをやろうやろうとしない方が、良い物を書くという印象です。
闇のニンジャパワーで世界を闇に包もうとする闇博士は、旧シャドーラインのクローン幹部を呼び出してニンジャランドを防衛し、
割とギャグっぽい役割なのに、声優陣が超豪華。そして今回の女装担当は、キンジ。
「ここか。今日の俺の死に……。…………仕事場は」
闇博士にトッキュウ6号が立ち向かう一方、闇アカニンジャーにはトッキュウ1号と生身の天晴が戦いを挑み、
生身でも戦闘力の高いバカと、それを一切止めないキチガイのコンビが、危険すぎるコラボレーション。
いやほら、普通、形だけでも、「そんな体じゃ無理だ!」とか止めますよね……でも、止めない。
ニンニン&トッキュウがニンジャランドに突入している間に、火事場泥棒で恐れの力を集めようとするキツネ右衛門だが、
そこに現れたのは恒例ゲスト枠の動物戦隊ジュウオウジャー。
単純な横並びではなく、画面を広く使い少しずつ距離を置き姿勢もそれぞれの5人が階段に並び、
「AhーーAhーーAhーー」とスキャットが入る登場シーンは格好良かったのですが…………
純然たるサービスシーンなのでツッコミどころではないのですが…………レオ以外ほぼ別キャラの集団(笑)
初期設定が難産でこの時点でまだキャラが固まっていなかったのか、タスクとセラはあまり友好度を感じさせない態度でぐいぐいツッコみ、
大和くんはそれに露骨に動揺し、アムは小悪魔というより無邪気、レオだけが揺るがずバカ。
決め技を放つ際の「さっさと決めるぜ!」の別人感が凄い大和くんは、リアクションを見る限り、
どうやら最初期は天然系の路線だったように思われ、登場時の距離を取った並び方といい、
実際の本編よりも協力関係の構築に時間がかかる(その間のあれこれを大和くんがのほほんといなす)構想だったのかもしれません。
もはや別戦隊すぎて面白いレベルなので、『ジュウオウジャー』ファンには貴重な資料として見ていただきたいぐらい(笑)
駆けつけた仲間達の赤ピーマンバズーカの支援もあり、闇アカニンジャーを倒すも天晴は消滅してしまうが、
イマジネーション的な何かでなんとなく復活。ここまで、両作品のテーゼを繋げて上手く展開していただけに、
最後の最後でイマジネーションが単純に「奇跡を起こす力」ぐらいで雑に扱われたのは大変残念でしたが、期待値が低かった事もあり、
ここまでは思った以上に楽しめました。
もう一つ難を言うと、『ニンニン』最終盤で株価が奈落の底を抜けたお父さんの語りシーンが長くて、何を言っても(でもこの人、
本音は子供達より俺もニンジャになって暴れてーーーの人だからな……)と冷めてしまうのですが、
『トッキュウ』との家族テーマ繋がりがあったにしろ、やはり下山さんは結構真剣に、
『ニンニン』で「父と子」というテーマをやりたかったのかなと思われるのですが、それがどうしてああなってしまったのか。
W戦隊の団結バトルでは、モモニンジャーとトッキュウ4号のコンビネーションによる、
大胆に高低差を組み込んだダイビング火炎斬りが非常に格好良かったです。そして、残念な青2人を叩き起こすトッキュウ3号。
巨大戦ではトッキュウ御神輿大王が降臨し、闇博士を撃破。両戦隊はそれぞれの帰るべき場所へと帰り、ラスト、
「ただいま」で締めてくれるなど、『トッキュウ』愛を端々に感じるのは、嬉しい一作でした。
『vsキョウリュウ』は、ただでさえ基本設定が重めな上に本編クライマックスに迫るトッキュウジャーという悪条件に加え、
劇中における大人視点であるキングがトッキュウジャーの置かれた状況に向き合ってしまうと展開がシリアスにならざるを得ず、
そこに劇場版的な娯楽要素を加えるという構造の噛み合わせが大変悪かったのですが、
『ニンニンvs』では一つの旅を終えたトッキュウジャーが闇博士の作り出した異界(トッキュウジャーのフィールドである)
に助っ人として通り過ぎるという構造が上手く機能。
上述したように最後のイマジネーションの扱いが残念でしたが、子供トッキュウジャーをラストのサービスだけに留めた判断も良く、
予想外に楽しめる出来でした。
- ◆『行って帰ってきた烈車戦隊トッキュウジャー 夢の超トッキュウ7号』◆(監督:荒川史絵 脚本:會川昇)
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シャドーラインとの戦いが終わってから10年……すっかり大人になったライト達の前に突然、
甦ったシャドーラインを率いて新たな敵が現れる。変身して戦おうとする5人だが、イマジネーションを失っていた為にトッキュウジャーになる事が出来ず、
慌てて逃げている内に不思議な穴に落ちてしまい……辿り着いたのは、小学校の卒業式の前日?!
そこで子供時代の自分たちを目にした5人は、その日が、とても大切な日だった事を少しずつ思い出していく。
そして子供時代の5人は、ある約束の為に明を探し出そうとしていた……。
『トッキュウジャー』TV本編は大好きなものの、もともと続編や後日番外編の類が余り好きでは無い事と、
CMなどでの内容紹介からどうも琴線に触れる要素が薄そうで手を出していなかったのですが、
思い切って見てみたところ……うーん……事前に警戒していた個人的な地雷が、概ね見事に地雷でした(^^;
危惧していた地雷は主に3つありまして……
1・子供トッキュウジャーに焦点が当たってもあまり嬉しくない
これはもう純然たる好みではありますが、構成上、大人と子供が半々ぐらいなので、どちらも楽しめないと根本的な所で割と厳しいです。
そしてやはり、小学生を変身させて切った張ったさせるのは、見ていてあまり楽しめず。
割とあっけらかんと変身させてしまうのですが、精神的には本編において「子供の自分を乗り越えるという痛みを得て真のヒーローになったライト達」
の延長線上にあるとはいえ、子供に戻った5人があっさり変身してしまうと、小学生の体にヒーローとしての覚悟を宿している子供ライト達がむしろ精神的に歪な構造になってしまい、
その歪さから解放されるのがあの最終回だと受け取っていた身としては、どうも引っかかってしまいます。
子供と大人のトッキュウジャーを競演させるというコンセプトありきでやむを得ない部分ではあったのでしょうが、元来、
もう変身しなくて良くなった筈の5人を、何の躊躇もなく変身させてしまうというのは、もう少しデリケートに描いてほしかった部分。
そこが無い為に、“戦い”にともなう“痛み”という要素が敵味方ともに非常に薄く感じてしまいました。
2・脚本が會川昇
誤解の無いように書いておくと會川昇に関してはここ数年でむしろ見直しているのですが、どうもTV本編の會川脚本回(3本)
が作品とあまり相性が良くない印象だったので、どうしてVシネマの担当になったのかなぁと(^^;
『トッキュウジャー』と根っこの所で波長が合っていなくて、テクニックで表向き綺麗にまとめている感じがあったのですが、
今回もそんな感じ。
逆に言うと、小林脚本かせめて大和屋脚本だったら迷わず見ていたし、この二人のどちらかだったら、
何が出てきても『トッキュウジャー』として、良し悪しとは別にすっぱり納得できたのですが(^^;
3・トッキュウ7号(車掌)が何も嬉しくない
これはもう本当に、何も嬉しくない(笑)
新戦士7号(紫)登場は、レインボーという要素が本編で使い切れなかったから、
というのは視聴者と作り手の相互理解としてはわかるのですが、劇中で誰もツッコまない為に、完全に内輪ウケになってしまっています。
登場時点で内輪ウケ、といえばそれまでですが、本当にただのアドバルーンにしかなっていなくて(^^;
……「帰ってきた」系戦隊Vシネマシリーズは初見なので、他のシリーズ作品の方向性はわかりませんが、子供トッキュウジャー、
レインボーの7人目、車掌の補完、とサービス要素優先のお祭りボーナストラックといった造り。
二つのトッキュウジャーを競演させる為の仕掛けはかなり強引ですし、とにかく求められた要件を詰め込んでラッピングしたという感じで、
詰め込まれたサービス要素が嬉しければ楽しめるし、そうでなければ、酷くもないけど見所もあまりない、といったぐらいの出来でしょうか。
個人的には、小学生トッキュウジャーを戦わせるというコンセプト部分に大きな問題があったかな、と。
その上で一番引っかかったのは、イマジネーションを失って(子供ライト達から見て)格好悪い大人になってしまったライト達が、
イマジネーションを取り戻して格好良くなる瞬間に最大の焦点が合っていない事。
あくまで個人的な解釈ではありますが、本編におけるヒーロー観が、「子供時代の自分に胸を張れる大人になる事」であった事を思えば、
大人になっていく過程で、いつの間にか色々な事を仕方ないで済ませてしまっていたけど、そうじゃない、自分たちは、
こいつらが格好いいと思える大人(=ヒーロー)でなくてはいけないんだ、
という気持ちを取り戻す瞬間こそクライマックスにふさわしかったのではと思うのですが、
そういった描写が全く無いわけではないものの、最大のクライマックスにならなかったのは残念。
合わせて、ライト達が取り戻すイマジネーション=「子供時代の想像力」、となってしまい、いつまでだってそれを持っていて良いんだ、
というのはそれはそれで悪くないのですが、どちらかというと會川昇のヒーロー観が前に出すぎて、
大人になる事でヒーローになっていく本編のテーゼとはズレを感じてしまいました(まあ監督は本編に助監督で入っていた筈なのですけど)。
ライト達が再びトッキュウジャーになる際の原動力は、子供とは別のイマジネーションがふさわしかったような。
この辺り、撮影タイミング的に、脚本執筆時点でどこまで最終回の内容を踏まえる事が出来たのか、摺り合わせが難しい部分もあったのかもですが。
また、クライマックスバトルの工夫は良かったのですが、戦闘シーンをかなり豊富に盛り込む都合で、
物語の流れや本編のテーマ部分を犠牲にしている所も見受けられ、総じて、サービスとテーマが融合せず、
サービスがテーマを駆逐してしまった感じ。最初からハードルを低めに設定していたので落胆は無かったのですが、もう少し、
各種要素が綺麗に繋がってほしかったなぁという、そんな作品でした。
ちなみに個人の妄想としては、“10年後のライト達”を描くなら、
「ライト以外の4人はトッキュウジャーとしての戦い自体を忘れている(子供時代の空想だったと思っている)」
ぐらいまでやって欲しかったのですが、戦いは覚えているけど変身は出来ないけどその原因はわかっている、
というのは諸般の都合で中途半端な導入になってしまったなぁとも思う所。
(2019年10月20日)
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