- ◆忍びの43「伝説のニンジャ!妖怪かるた大作戦」◆ (監督:加藤弘之 脚本:毛利亘宏)
- 心が冷え切った所でお送りされる、年末総集編+コラボスペシャル。
素晴らしき忍者の会から派遣されてきた天空忍者シュリケンジャーは、ジライヤとサスケと鷹介の知り合いを名乗り、 もはや出典に言及されないというのは、当たり前のようにニンジャヒーローが混在している世界観だと思えば面白いのですが、 今作の世界観が牛乳を入れすぎたフルーチェのように、いつまで経っても形にならない溶けたゼラチンのようなものだという事がハッキリしている為、 もはやコラボも素直に楽しめません。
シュリケンジャーは、これまでの戦いの分析を名目に妖怪カルタを始め、それぞれの妖怪との戦闘を振り返るという趣向。 オオカミオトコの札の所で、皆が揃って(地雷踏んだ……!)という顔で一斉にキンジを見つめるのですが、まだそれ、 腫れ物扱いなのか。
そして自分が妖怪になって迷惑をかけた事は思い出しても、父と兄の事は一切思い出さないキンジは、 ポンチョになる代わりに人間として大切な何かを捨ててしまったようです。
つくづく、酷い。
夏に一回総集編風味をやっている関係かメカには一切触れずに、後半はカルタを利用した妖怪と、 その生み出したカルタの世界で幻影妖怪とバトル。その撃破後、現実世界で縮小バトルを行い、超絶アカがわっしょい。
一方その頃、萬月の死を知った有明の方から溢れ出した莫大な恐れの力を用いて、九衛門が牙鬼幻月を復活させる。 奥方は復活の捨て駒にされたのかと思ったら予告に居ましたが、身内が泣き喚いた勢いで復活???
えー、後、蛾眉さんが立っていましたが、たぶん、何かの気のせいでしょう。
- ◆忍びの44「最終決戦!ラストニンジャの試練」◆ (監督:渡辺勝也 脚本:下山健人)
- 今回最高に面白かった台詞:
「結局儂の教えが間違っていたのじゃな……」
素で吹き出したよ爺ちゃん!
油断していたら約一ヶ月ぶりになってしまいましたが、改めて、身内が泣いたら復活してしまうラスボス・ 一応その復活を止める為に戦っていた気がするのに揃ってリアクションが薄いニンニンジャーの面々と、酷いなぁ……(^^;
そして、超ぞんざいに甦る蛾眉さん。
明かされる、九右衛門の正体は444年前に生まれ、幻月の死の間際に妖力で未来の時空へ送られた実の子だったという事実!
と、悪い意味で衝撃の展開が続きます。
これまで謎だった牙鬼軍団のアジトが、地下にあった牙鬼さん家のお城で、地上に旋回上昇してくる、というのは面白かったですが。
そして幻月の宣戦布告からどうなるのかと思いきや、幻月から指揮を任された十六夜九衛門改め牙鬼久右衛門新月は、 「まずは晦、君が行け」と御家老を単品で送り込み、好天は好天で一人ずつラストニンジャの試験を始めるという、ゆるい展開。
天晴が試験を受けている間、手分けして敵の動きを探る5人だが、街では何故か人々が晦正影に狂信的な忠誠を誓い、 霞・凪・キンジも、その術にはまってしまう。
「ライオンハオーを仲間にしたのも、カラクリ九尾に勝ったのも、全て晦様が居たからだよ」
「いや、なに言ってるの? それ全部、お兄ちゃんが頑張ったからじゃん」
スタッフはこの台詞に疑問を感じなかったのでしょうか。
いや、内容自体は正しいのですが、この内容が正しい事、それを劇中人物が平気で口にしてしまう事に、思う所は無かったのか。 正直、今作の内容としてそれが如何に正鵠を射ているとしても、言わせてはいけない台詞だったと思います。
結局、1年やってきてそこなんだ、というのは面白いとか面白くないとか通り越して、もはや悲しい。
その後、晦の妖術が、記憶の中でその人の精神的支えになっている人物を上書きして成り代わるものだとわかり、 風花と八雲が天晴の間抜けなシーンを思い出す事で晦に自ら術を解かせる、というのはそれなりに面白かったのですが、 あっさり術にかかった3人の立場ゼロ。
そして、致命的に喋り方が可愛くないため、 ほだし系妹キャラとしての可愛げブーストがちっともかからないまま最終盤を迎えてしまった風花が術を解こうという仕草が、 完全にアホの子になってしまい、ただただ辛い。
「試験よりもあいつらが心配か?」
「心配なんかしてないよ。俺が居なくても、もう八雲も風花もみんなも負けない。だからあいつらも、 俺を爺ちゃんの試験に送り出してくれた筈だ」
展開としてはどうも、天晴さんの超上から目線のコメント含め、天晴不在でも5人で幹部の一人ぐらい倒せるよ! という5人の成長(なのでしょうかこれは)を描く意図だったようですが、晦の正体(実は手の平サイズで晦ロボを操っていた) を見破るのがいつにも増していい加減かつ唐突な魔法だったり、巨大戦もメカごり押しで圧殺するだけなので、 “なぜ勝てたのか”は一切描かれず(敢えて言えば、LVを上げて物理で殴ったから)、 ここまで中身が無いといっそ感心する中身の無さ。
現象としての“勝った/負けた”に“どうしてその結果に至ったのか”を肉付けしていくのが物語なのだと思うわけなのですが。
晦さんも一応半年以上出ていた筈なのに、使い切ったポケットティッシュみたいなポイ捨てぶりでビックリ。
最後に、実は爺ちゃんは自らの父である先代ラストニンジャを殺してその忍タリティを奪う事でラストニンジャを受け継いでいた (現時点では爺ちゃん回想のみなので真偽不明)、というシリアスな設定が出てきた所で、次回へ続く。
- ◆忍びの45「親子三世代!ニンジャ全員集合」◆ (監督:渡辺勝也 脚本:下山健人)
- 唐突に復活したと思ったら別に力を見せるわけでなく巨大妖怪に乗り込んで粋がる蛾眉さんに5人が追い詰められた所で天晴がやってくるや否や激熱フィーバーで妖怪瞬殺して蛾眉さん逃亡、 と開始5分で前回のエピソードがどうでも良かった事になって頭痛い通り越して心が痛みを感じなくなってくる展開。
ラストニンジャが一子相伝の暗殺拳みたいな存在であった事がわかり衝撃を受けた6人は、好天を殺せるわけがない、 と意気消沈するがそこに久右衛門が姿を見せる。
もともと九衛門、<終わりの手裏剣>は欲しがっていたけど、ラストニンジャになりたいなど一言も口にしていなかったと思うのですが、 (恐らく設定が変更された影響で)いつの間にやら九衛門の中で「ラストニンジャになる」と「終わりの手裏剣を手に入れる」が一緒になっており、 おまえ達は覚悟が足りないから好天を殺してラストニンジャになれないけど、僕は好天を殺す為に妖怪の力を手に入れて人間捨てるぐらいの覚悟があるから偉い! と『ニンニンジャー』得意の論点ずらしからの異次元着地を披露。
そもそも、孫である天晴達と、幻月の息子であった久右衛門とでは、「好天を殺す事」に対するスタンスが違って当たり前なのですが、 誰もそこに触れずに久右衛門の覚悟に感心しており、登場人物全員の頭と心が弱すぎます。
RPG回を受ける形でか、この最終局面で突然連発される「覚悟」ですが、漠然と「ラストニンジャになりたければ人を殺せ」 と言われたら(今作の倫理観においては)殺さないのが当たり前であって、そこで殺せるのはただの悪意と狂気でしかなく、 根本的に「覚悟」の使い方がオカシイ。
これが、「ある理由でどうしてもラストニンジャにならなければならない」しかし「その為には好天を殺さなくてはならない」なら、 そこに選択と葛藤と覚悟が生じますが、今作、ラストニンジャになってどうするのか、 という要素が一切描かれた事が無いので、そこに選択と覚悟の生じようがありません。
せめてキンジの初期設定が生きていれば「父兄を生き返らせる」為に「師匠を殺せる」のか? という問いが生まれ得ますが、 そのキンジにしても元来は<終わりの手裏剣>を欲しがっていただけですし、ここでも設定の変更による混濁が生じてしまっています。
今作基本的に、ラストニンジャになる、と、牙鬼軍団を倒す、というのが別個の目的なのですが、こんな事なら早めに、 「ラストニンジャにならないと牙鬼幻月を倒せない」とでもしておいた方が良かったような。
幻月は幻月で、世界に対する脅威度がさっぱりわからないわけですが(^^;
久右衛門に手裏剣忍法を封じられ、超必殺技を発動された6人は、悠長に状況を解説しながら一時撤退。 久右衛門への対策を練って翌日の決戦に臨むが(前回ラストから今回冒頭の連続バトルで一応クライマックス感を盛り上げたのに 、ニンニンジャー側にとって都合の良すぎる一泊インターバルで、何もかも台無し)、一足早く、好天は幻月に戦いに挑んでいた。
「家族を巻き添えにはせん! 貴様との因縁は、儂の代で終いにする。それが儂の使命じゃ」
え?
まあもう、爺ちゃんの言動についてはきっぱり脇に置いておくとして、 ただでさえ存在感不足の幻月(デザインは格好いい)が身軽に一騎打ちに応じてしまい、ますます大ボスとしての貫禄がなくなっていきます。
CG大放出しての戦闘は迫力ありましたが、爺ちゃんがど派手な範囲攻撃をすればするほど、 守破離って何だっけ?と思わさる高度な仕様。
「心に闇がある者は、目的の為、安易に力を求めやすい。それがおめえさんの、弱さでございやす!」
一方、立ちはだかる久右衛門と激突するニンニンジャーは、スターが自ら手裏剣になって元妖刀にくっつき、天晴がそれを発動。 スターニンジャーが自ら武器になるから、もはや手裏剣忍法ではないのだの術により、久右衛門の手裏剣忍法封じを打ち破る。
守破離回(天晴のおっさん大量召喚剣はオリジナルなので好天の教えを離れた説)の時もですが、 下山さんが書いているのは理屈ではなくて屁理屈なのだよなぁ……その屁理屈で突破できるように世界観の下地を作っていれば面白いかもですが、 そういうわけでもないのが困った所。
あと、前夜にキンジの提言で、久右衛門はキンジにヘッドハントかけるぐらい心が弱いから付け入る隙がある筈、 と対策を練っていたのに、心の弱さ、全く関係ないんですが……。
「あっしらはあっしらで、新たな道を選びやしょう!」
「そっか。私たちはお爺ちゃんの力を奪わなくても、私たちのやり方で、ラストニンジャになればいいんだよ!」
「夢なんて、最初から真っ暗で見えないんだ!」
「ああ。だから自分で切り開くだけだ!」
「今、僕たちは覚悟を決めたんだ!」
「あっしらは、ラストニンジャの掟すらも超えやす!」
「それで爺ちゃんの先を、いや、違う道を行く!」
第29話の旋風の台詞を引きつつ、何となく綺麗にまとめて久右衛門に言葉の機関銃を浴びせたニンニンジャー (これが心の弱さを突く攻撃か)は、ニンジャ合体ビームを発射。直撃を受けて膝を突いた久右衛門の体からは赤い輝きが漏れるが、 それこそはかつて旋風が奪われた忍タリティであった!
「俺は……俺は……! ……ニンジャだぁぁぁ!!」
狸の置物の中に何かを見つけて駆けつけた旋風は、奪われた忍タリティを取り戻し、久右衛門は蛾眉に連れられて撤退する……。
えー……今回一番の失敗にして、既にバラバラ死体と化している作品全体に追い打ちでナイトダイナミックを浴びせる勢いの大惨事がこの、 “旋風が久右衛門に奪われた忍タリティを取り戻す”というのを、 比喩(心理)的な表現ではなく映像で具体的に明示してしまった事。
そして実際に旋風が、力を取り戻してアカニンジャーに変身してしまった事。
これにより今作は完全に、そもそものタレント(才能)の有無が何より重要な世界になってしまいました。
忍タリティは手裏剣忍法の前提条件となる素養であり、それは一種の特殊能力であるというのはこれまでの描写からも明白ではありましたが、 それを心の在り方とかそういったものではなく、明確に具現化したもやもやと描いてしまうと、また意味が変わります。
つまり、忍タリティは忍タリティでしかなく、持つ者と持たざる者が存在しているのです。
ならば、今作における、忍タリティを高める(鍛える)、とは何だったのか。
それが最初から選ばれた者達だけが所持する才能ならば、今作はそれを通して何を伝えたかったのか?
勿論、そういった世界観で伝えられるテーマも幾らでもあり、今作がそうであるならば別に構わないのですが、 ニンニンジャーがつい先ほど叫んでいたのは、
「新たな道を選ぶ」「私たちのやり方」「自分で切り開く」「掟すら超える」「違う道を行く」
です。
いっけん自主性と自立を高らかに謳っているように聞こえますが、しかしこの世界では才能が無ければ、 自力で切り開く道など存在しないのです。
「夢は最初から真っ暗で見えない」ってつまり、才能の無い人間にとって世界は真っ暗という事だよな、と。
せめて旋風父さんが、ニンジャとしての夢も力も失ったけど今は他の道でバリバリ働いています、というならまだしも、 ハッキリ言って父さんこれまで、夢も力も失ったニンジャの出がらしとして描かれていたわけです。それでもまだ、 頼りないけど家族の為にやる時はやる(のかと思ったらほぼ役に立たない第42話とか本当に何をしたかったのか)父親像、 を貫くならまだしも、ここでタレントを取り返した途端にテンション上がって本当の自分を取り戻した、みたいな描写をしてしまうわけで、 始末に負えません。
第29話の締めに使われた「俺の夢は、かなわなかったけど……天晴や風花達に、それを継いでもらうのが、今の俺の夢だ。 あの頃見えなかったものが、今は見える。…………父さんのお陰だ」って聞いた回では割と良い台詞だと思ったのですが、考えてみれば、 よくある父娘すれ違いギャグとはいえ、風花を忍者博物館に連れて行けば喜ぶ筈だと思い込んでいたり、 旋風も伊賀崎流の閉じた価値観の中で生き、それを子供に押しつけている人でしかない、という本質がさらけ出されてしまいました (八雲母は、使い方次第でこの伊賀崎家の価値観へのカウンターになり得る存在だったのですが、フェードアウト)。
要するに今作、主要登場人物に「ラストニンジャになれる/なれない」以外の価値観を与えていないので、 世界を判断する基準がそこで閉じてしまっているのです。
例えば、戦隊史として見ると今作と同一のライン上といえ、個人的にはあまり評価していない『魔法戦隊マジレンジャー』(2005) でも、主人公達が魔法を使えるのは血統に依っていましたが、テーマ的にはぐちゃぐちゃだったとはいえ、 そのエネルギーとなる「勇気」自体は、少なくとも誰もが自分の内側から生み出せるものでした。
今作には、それすらない。
徹頭徹尾、忍タリティは伊賀崎流の中で閉じてしまっており、挙げ句にその有無(強弱)が作品世界の判断基準と化してしまっています (今作における明確すぎるキャラクターヒエラルキーの正体が完全に腑に落ちました)。
だから、何も生まれない。
残り2話あるのでそこでいきなり外へ広げようとするかもしれませんが、もはや何をしても説得力はほぼ皆無でしょう。
シリーズには、その“閉じた価値観”を逆に活用した作品(『侍戦隊シンケンジャー』)もありましたが、 それはテーマとして正面から向き合っていたから出来たわけで、今作は単に場当たり的に穴を掘っていたら崖から落ちただけです。
とにかく物語として、その時々の上っ面だけ拾って綺麗にまとめたつもりになっているから、 数話どころか数分レベルですら前後のテーマ性が一貫しない。
3代アカニンジャー揃い踏みとか本当は盛り上がりたい所なのですが、力を取り戻すや否や輪の中心になり(普通、 促されても遠慮すると思うのですが)、はしゃいでアカニンジャーに変身してしまう旋風の姿には、 夢も力も失ったけどそれを持っている若者達を見守り導く良き大人像なんてこの作品には存在しなかったのだな、 と空虚な気持ちだけが募ります。
次回、アカ旋風の描写次第では更なる大惨事の可能性も待ち受けておりますが、どこまで酷い事になるか、逆に興味が湧いてくるレベル。
そして今回、この揃い踏みで終了してしまい、幾ら何でも予告とサブタイトルで見せすぎというか、 演出陣もどうしてしまったのでしょうか色々。
あー後、割とどうでもいい話ですが、久右衛門は何故か正体の秘密厳守にこだわっていたそうですが、 それなら本名を「久太郎新月」とか「久兵衛新月」にして、実は御家老の嫌がらせがクリティカルヒットしてしまって慌てていた事があった、 とかネタを繋げれば1ニヤリぐらい出来たのですが、そんな小技はあるわけがない安定の『ニンニン』クオリティ。
- ◆忍びの46「終わりの手裏剣、目覚める!」◆ (監督:中澤祥次郎 脚本:下山健人)
- 前回ちょっと気にしたアカ旋風の扱いですが、少なく見積もっても20年はニンジャとしてのブランクがあると考えて良さそうなのに、 忍タリティ(才能)を取り戻したらラスボスとごく普通に戦闘してしまいました。
せめてここで、研鑽を積んでいないから思うように力を振るえない描写でもあれば髪の毛の先程度にはマシだったのですが、 本当に才能が全ての世界のようです。
一見いわゆる「ノリが良い方が勝つ」理論にも見えますが、あれは「ノリで何でもしていい」のではなく、 「必要十分な下準備を整えていればノリで勝っていい」という理屈です。
エンタメ性による強行突破というのは、下ごしらえによって突破に説得力を持たせているから成立するのであって、 準備無しに突破しようとしたら、それは単に物語をボロボロに崩してしまうだけです。
そして勿論、やっていい事と悪い事があります。
この局面でのアカ旋風の活躍により、今作は「学び」「修行」「努力」という要素も、 紐でくくってまとめて燃えるゴミに出してしまいました。
全身複雑骨折のバラバラ死体にナイトダイナミックを浴びせただけでは飽き足らず、キングピラミッダーで踏み潰したような大惨事&大惨事。
ニンニンジャーは幻月に全員合体技を浴びせるも、倒す事が出来ない。
「甘いな。儂を誰と思っている。戦国最強・牙鬼幻月なるぞ」
第1話からずっとなのですが、このフレーズを聞く度に、本多忠勝(徳川家康の家臣で、生涯、 合戦において傷を負った事が無いという逸話を持つ戦国武将)を思い出して困ります。私が今ひとつ、 幻月を世界の脅威として認識できない理由の一つなのですが、そこはかとなく兜のデザインもそれっぽいし(^^;
幻月の大技を食らって全員吹き飛び、究極奥義で立ち向かうアカ好天だが、不意に現れた久右衛門に背後から刺され、 忍タリティと<終わりの手裏剣>を奪われてしまう。
「これは宿命なんだ。君がどれだけ抗おうと、444年前から定められていた宿命なんだ」
ここに来て幻月&新月がやたらと「宿命」を連呼して、戦いを伊賀崎一族と牙鬼家の血統の因縁のようにアピールしてくるのですが、 そんな要素はほとんど描かれてこなかったので、困惑だけが募ります。
<終わりの手裏剣>を奪われた事で、金の粒子になって消滅していく好天――実は好天は、以前の幻月との戦いで死亡しており、 <終わりの手裏剣>の力で人間の姿を保っていたのだった。
音楽もドラマチックなものに変えて盛り上げに来るのですが、ここに来ての退場劇による感動投与には、 『機動刑事ジバン』を思い出しました(笑)
完全に、投与する薬を間違えた感じ。
「終わりの手裏剣は僕が貰った! つまり、僕がラストニンジャだ!」
そしてまた、設定が微妙に横に滑る久右衛門。第9話で、ラストニンジャとは<終わりの手裏剣>の守り人の称号、 と言及されているのですが、それと、<終わりの手裏剣>を手に入れたからラストニンジャ、というのは同じようで違うと思います(^^;
まあこの、久右衛門のラストニンジャへのこだわりについては最終話で拾われるのですが、拾った結果、 更なる地獄の蓋が開く事に。
久右衛門は最後の封印の手裏剣の力で究極久右衛門となり、その攻撃で全員吹っ飛び変身解除。牙鬼親子は余裕綽々で去って行き、 一旦屋敷へ戻った一家は、好天の死に打ちひしがれる。
「爺ちゃん……もっと俺が、うまく戦えてれば……。ごめん、みんな……」
最近丸くなっていた天晴が、ここ数話で初期の超上から目線を急に取り戻しているのですが、 天晴にとっての「やりたい事」って要するに「卵以外は全て脇役の世界」を作る事なのか。
ここで八雲が居間を後にし、珍しくキャラのスタンスの違いを表現するのかと思ったら……
凪「どこ行くの、やっくん」
雲「あの場所には……居たくないだけだ」
凪「冷たいな……おじいちゃんが消えて悲しくないの!?」
1クール目とかならともかく、最終話目前にこんなやり取りを聞かされるとは、さすがに目が点になりました。
『ニンニン』一家の言う所の「家族」の絆がどの程度のものなのか、よくわかります。
その後、前々回、正影の術を打ち破る際に天晴とか駄目人間、と主張した八雲と風花が「俺が見てきたのは他でもないタカ兄だ」 「私だって、闇雲にお兄ちゃんの背中追ってきたから」と天晴さんはやっぱり最高っす! とフォローを入れ、 登場人物が無闇に主人公を持ち上げる、というただただ気持ち悪い事に。
ここに来て、2クール目や3クール目の微修正がほぼ無かった事になって、人間関係が1クール目に戻っていて凄い。
そして序盤からずーっと疑問なのですが、どうして天晴は、今作における理想のリーダー像なのでしょう。
勿論、作品によって主義主張が色々あって良いとは思いますが、これは本当に理解できません。
天晴さんの基本理念、「自分=主役、仲間=引き立て役」なのですけど。
そして旋風が皆を集め、信楽焼の中から見つけた桐の箱を開くと、中身は空っぽ……と思ったらそこには、 自分が消え去った時の事を想定した好天からのホログラムメッセージが仕込まれていた。
……私の持論に、
アニメなどにおいて、身近な場所にビデオメッセージを仕込んで死んでいる父親(ポジション)は基本クズ
というのがあるのですが、また一つ補強されてしまいました。
「儂が消えたぐらいでクヨクヨせず、イケイケドンドンじゃ! そして、やるべき事をやってこい!」
好天の激励を受け、目に光を取り戻す天晴達。
「悲しい時だからこそ、自分たちのやるべき事と、ちゃんと向き合わないといけないよね」
「いや! 俺たちは俺たちのやりたい事をやる」
<終わりの手裏剣>を取り戻し、牙鬼幻月を倒し、世界に平和を取り戻す…… 自分たちの“やりたい事”への決意を固めたニンニンジャーは再び立ち上がり、翌朝、牙鬼城を目指すが、 その前に蛾眉雷蔵と有明の方が立ちはだかる。
幻月が復活しても、有明の方が亡き萬月の事を引きずっているのはちょっと面白い要素だったのですが、ここでごく単純に、 ニンジャへの恨みにシフト。……うん、まあ、期待はしていませんでしたが、ことごとごく何もかも広がりません。 正影と有明の方に関しては完全に、キャスティングだけで満足してしまって何も厚みを与えないまま退場の時を迎えてしまった感じ。
メインキャラ6人さえまともに転がせないのに、敵の幹部まで肉付けできるわけがない、と言えばそれまでですが。
「のこのこと現れるとは無謀だな。弔い合戦か!」
「弔い合戦? そんなものは関係ない」
「私たちは私たちのやりたい事をやり切るだけです!」
第42話から強調して持ち込まれたこの「やりたい事をやる」は、“やるべき事”と“やりたい事”を対比して、 “使命”から“自由意志”へというのを描く意図なのでしょうが、 ニンニンジャー各人が“使命”と“自由意志”に向き合うエピソードというのがほぼ皆無だったので、 言葉を重ねれば重ねるほど空虚になっていきます。
むしろ、やりたい事をやるという意味では、皆序盤の方が、それぞれ別の価値観 (魔法使いになる・科学者になる・安定した人生を送りたい・平穏な生活を過ごしたい)を持っており、全体としては
〔やりたい事がある−(A)→今は使命を優先する−(B)→それがやりたい事に変わる〕
という流れのつもりなのでしょうが、肝心の(B)の部分が描かれていないので、話が成立していません。
根本的な所では今作、“使命”と“自由意志”という部分にはウェイト置いてない筈(そこは軽く流す作風)だったのですが、 どうして急にそういう事になったのか。
そして「やりたい事をやる」といえば、4年前の作品(『海賊戦隊ゴーカイジャー』)の重要なフレーズであり、 何故これをクライマックスで流用しているのか、激しく理解に苦しみます。メインターゲット層は4年も経てば一回転してはいるのでしょうが、 これではセルフオマージュではなく、悪い意味のパロディにしかなっていません。
アカは牙鬼城へと向かい、青・桃・星は、蛾眉と有明の方と戦い、白・黄はシュリケンジンで巨大足軽と赤い狐ロボを担当。 屋敷では箱が落ちたらビデオメッセージの続きが始まり、この戦闘に爺ちゃんから各人への言葉が重なるという趣向。
最高だったのは
「キンジ、おまえには苦労をかけさせた。心の弱かったおまえも、今や信頼のおける立派な弟子じゃ」
……いやキンジ、いつ、心強くなったの?
私の記憶だとつい最近も、「あっしも、隠し事が……」とかやらかしていた記憶があるのですが、まあ、 好天の目は節穴だから仕方ない。
「そして、天晴。おまえには、多くは言わん。この世で、最も強いニンジャとなれ。良いか、牙鬼幻月を倒せ。 それをもってラストニンジャレースからの卒業とする。後は、己の道を行くのじゃ」
先ほどまで“やりたい事をやる”とか言っていた筈なのですが、そんな天晴の行動は、爺ちゃんの「命令」通りという、 このニンジャ無間地獄。
祖父と孫達の想いが重なっている、というのをやりたかったのはわかるのですが、上述したように、 各人の“使命”と“自由意志”の話というのをやっていないので、各人が自分の意志でそこに立っているという感覚が非常に薄く、 挙げ句、好天も最後まで「やるべき事をやれ」と上から押しつけているだけなので、誰も彼も好天の価値観から逃れられていませんし、 何より好天が何も反省していません。
爺ちゃんのメッセージも各人の良い所を褒めるだけにしておけば良かったのに、みんなニンジャにまとめてしまうので、結局、 祖父の尻ぬぐいを自分たちの意志だと思い込まされている孫の話になっているような。 ニンジャヒーロー作品だからニンジャにまとめるのはかまわないのですが、 だったら中途半端に“使命”と“自由意志”のテーゼなど持ち込まないでスッキリ進めれば良かったのではないか、 という安定の『ニンニン』クオリティ。
とにかく、持ち込んだテーゼと劇中の出来事が至る所で噛み合っていないのに表面上だけ綺麗にまとめた風を装う為、 ボロボロに崩れた骨組みが砂漠に散らばっていて虚無の向こう側が見えてきます。
青が蛾眉を倒し、桃&金は有明の方を倒すが、ここも凄く不思議な組み合わせ。霞が奥方を倒し、 欧米コンビで蛾眉さんを倒すor八雲&霞で奥方を倒し、ポンチョが蛾眉さんを倒す、ならまあわかるのですが、 霞と奥方の因縁は何となく拾ったものの、蛾眉さんとか何しに復活したのでしょうか。
そして、毛利さんが強硬に主張していたと思われる霞→八雲は、魔女っ娘回以降、一切の押しどころか二人の絡みすらほぼなく、 渾身の無駄描写。内部で激しい派閥争いでもあって桃青派は粛正されシベリアに送られたのか。
赤は究極狐の元に辿り着き、ここで城ロケは良かったです。だが久右衛門は遂に<終わりの手裏剣>を発動し、 大量の足軽と妖怪が一挙に復活、天晴達は強制的に変身解除されてしまう。
「<終わりの手裏剣>は世界を終わらせ、新しい世界を生み出す。われら牙鬼家の支配する世界が始まる。 天下は恐怖によって統一され、古き世界は滅びるんだ!」
「そんな事させるかよ!」
「お前達、伊賀崎の力は無くなった。全て終わりだ」
「終わりなんかじゃない。俺も、他のみんなも、こんくらいで屈するわけないだろ! 熱いなこれ。燃えてきたぁぁぁぁぁ!」
逆境にくじけない天晴達は、果たして勝利を掴む事が出来るのか、次回、更なる大惨事が待ち受ける、最終回。
- ◆忍びの最終章「忍ばず未来へワッショイ!」◆ (監督:中澤祥次郎 脚本:下山健人)
- 最終話を見ていて胃が痛くなったのは初めてかもしれません……。
変則OPは、新規ナレーションに音と絵の合わせ方が格好良かったです。……うん、まあ、それぐらいかな、良かった所……。
天晴と久右衛門の戦闘はいつもの廃墟に移動し、好天との師弟関係について「奴だって僕を、 自分の息子の踏み台程度にしか考えていなかったのさ」とか急に言い出す久右衛門に、天晴は反論。
「爺ちゃんは、きっと願っていたんだ。競い合って、互いに高め合って、支え合える、俺たちみたいな仲間。おまえと親父も、 そういう風になれる事を願ってたんだよ!」
……まあラストニンジャの設定を考えたら、自分を殺せそうな弟子を探したか、 殺す事を焚き付けられそうな弟子を探したと考える方が無難で、久右衛門の見立ての方が正しい気がします(笑)
最終話にして久右衛門が突然、好天−旋風への劣等感と僻みを吐き出すのですが、 久右衛門が純粋に牙鬼家の宿命の為に活動しているなら口にする必要は無い言葉で、とすると、 久右衛門には更生の目があったのに好天が駄目師匠なので導けなかったという事になるのですが、それでいいのか。
……いや、好天が駄目師匠というのは既にハッキリしているのですが、 物語がそんな駄目師匠を超えていくという構造になっているならともかく、 「超える」「超える」と口で言っているだけで最後まで駄目師匠の命令通りに動いているので、 ヒーローが駄目な師匠を賛美している世界になっているのが問題なわけですが。
そしてそんなラストニンジャワッショイの世界観を守る為に、久右衛門を導けなかった好天ではなく、 好天の気持ちがわからなかった久右衛門が悪い、というロジックを天晴が展開しているのですが、 その久右衛門の動機付けは「父親の為」なので、コメントでタイキさんやwayさんが書かれているように、 久右衛門がどうして悪なのかというと、生まれが悪かったからという事になってしまっていて、 仮にも「家族」テーマを掲げる作品が、それでいいのか。
久右衛門に追い詰められる天晴だが、そこに次々と駆けつける仲間達。
「何人で来ようが力を失ったお前達が、僕に勝てると思っているのか!」
「勝つさ! 俺たちは6人だからな」
「俺たち6人が居れば、忍タリティは湧き上がってくるんだ!」
前回ラストで忍タリティが消滅したけどくじけない、という展開だったので、忍タリティは無くても、これまで磨き上げてきた力と技 (努力の集積)で戦うんだ――それが新たな忍タリティを生み出すんだ!――というような展開になるのかと思ったら、 積み重ねてきた経験よりもパーティ人数が根拠になり、そんな事は全くありませんでした。 そもそも忍タリティが消滅した理由がよくわからないので(<終わりの手裏剣>が凄いから、なのでしょうが)、 「湧き上がってくる!」とか言われても凄く困ります。あと、シュリケンジン動かせていたから、忍タリティ無くなったという事自体、 たぶん気のせい。
「忍タリティ」はよくあるマジックワード事故を危惧していたら、全く定義付けがされないまま物語がクライマックスを迎え、 “何か特殊な素質”として着地する事で一切キーワードとして外に広がらないという、マジックワード事故以前の惨劇。
忍タリティを取り戻した6人は最終回恒例の生身変身を行うのですが、スーツ+顔出しの状態から、 バック転の映像を合成する都合で、物凄く締まらない事に。まあ、 心が真っ白な状態で見ているので映像にもノれないというのはありましたが、変身ポーズは最終回の事を考えて作った方が良いなぁ、 と改めて思いました。
テンション最高潮のニンニンジャーは久右衛門を滅多切りにし、最後は合体ニンジャビームからの、連続斬りでフィニッシュ。
忍タリティがほぼ、=才能、であり、久右衛門が好天−旋風にコンプレックスを持ち旋風の忍タリティを奪った事も考えると、 今作における「悪」とは、生まれにも才能にも恵まれなかった者であり、 それを生まれと才能に恵まれたメンバー+1が叩き潰す、という物凄い構図です。
そして、大ダメージを負ってピクピクする久右衛門の姿に、天晴は変身を解いて歩み寄る。
あー………………
「おまえさ、爺ちゃんの事、憧れてるんじゃないのか?」
「僕が、奴に憧れているだと? 馬鹿か! 何を言い出す」
「おまえもラストニンジャになりたくて、爺ちゃんを超えたいと思っているなら、俺と同じじゃんか」
まさかのラストニンジャ無罪。
全身複雑骨折のバラバラ死体にナイトダイナミックを浴びせただけでは飽き足らず、 キングピラミッダーで踏み潰した上にビィッグ・ボンバー!!で消し飛ばすという、大惨事&大惨事&大惨事。
もはや、大惨事という言葉では表現が足らないレベルで、カタストロフの底が抜けました。
今作の、悪い意味であやふやな倫理観が、この最終回で大噴火。
これまで牙鬼軍団を何の躊躇もなくぶった切ってきたニンニンジャーを考えたら「九衛門に情けをかける」時点で十分にアウトなのですが、 情けをかけた理由が「九衛門も爺ちゃんに憧れているから」はもう、没収試合だと思います。
勿論、フィクションの倫理観というのはその作品世界ごとに存在して良いのですが、であるからこそ、 最低限の基準とルールは作り手の側が守らなくてはなりません。
それすら描写に一貫性が無く、千歩譲って相手の事情を鑑みたとしても、 「どんな悪人でもラストニンジャに憧れていたから許す」というのは、もはや、ギャグにもなりません。
また久右衛門が「人間を捨てた」発言をしていたという事は元・人間という事で、そうするとその父親の幻月は人間なのか? 根本的に牙鬼軍団はどういうカテゴリなのか? という問題も生じてしまっています。
前半にはキンジの「お命頂戴」があったので、その辺りのタガは外れているというイメージだったのかもしれませんが、 キンジとはすぐになぁなぁのじゃれ合いになってしまいましたし、その他の要素で一切補強されていないので、 ニンジャの世界の死生観は一般常識とは違う、というのは無理があります(なおこれは、 ラストニンジャの先代殺しのルールが作品世界から浮く一因にもなっています)。
敢えて言うならば『世界忍者戦ジライヤ』(卑怯な忍者は殺っていい世界) とコラボしているので『ジライヤ』世界と地続きという抗弁は成り立ちますが、さすがにそこまで恥ずかしい主張は無いと思いたい。
フィクションにはフィクションなりの始末というのがあるわけで、今作はここで完全に、 劇中描写に対する責任を放り捨ててしまったと思います。
この辺りから、胃が痛くなり始めました(笑)
「俺が頑張れたのは、爺ちゃんに憧れてたからだ。おまえもそうなんじゃないのか?」
「僕が……奴に……?」
「確かにおめえさんは、牙鬼家の宿命の為、好天様に弟子入りしやした。でも本当は……家族を取り戻したかったのではございやせんか?」
そして更に続く、胃の痛くなるやり取り。
久右衛門にとっての家族って、幻月その他の筈なのですが、そこ肯定的に扱うんだ(笑)
「あっしとおめえさんは、似たもの同士。孤独の道を歩んできたあっしらは、いつしか好天様に、伊賀崎家に、 居場所を求めていたわけでございやしょう」
今作が終盤に描いてきた要素を組み立てると、生まれにも才能にも恵まれなかった者は、 生まれと才能に恵まれた人たちの仲間に入れてもらおう、という事になるのですが、今作の結論、これか。
で、キンジが夏休みの終わりと共に、一切、父と兄の事に言及しなくなったのは、 伊賀崎家に居場所を認められたので実の父兄の事はどうでも良くなったからという恐るべき事実。
……いや、重ねて書きますが、今作が「家族」テーマで無かったのなら、別に流していい場所は幾つもあるのです。ですが、 今作は「家族」テーマを主張してしまったわけで、なら、「家族」に関わる要素は突っ込まれても仕方ないし、 そこで描かれる「家族」像が今作のメッセージとして受け止められるのは覚悟の上ですよね、と。
キンジが失った家族の代わりを伊賀崎家で得る事自体は別に構わないのですが、それと引き替えに実の家族の記憶が消滅していると、 それはまた、全然違う話になるわけで。
で、久右衛門が本当に伊賀崎家に居場所を求めていたなら、それをひねくれさせてしまった好天と旋風はどれだけクズなのでしょうか。 第45話以降、旋風父さんの株までストップ安なのは、正直辛いです。
「僕は……奴に憧れていたのか……?」
天晴とキンジから言葉の機銃掃射を受け、何だかその気になってしまう久右衛門……心、弱いなぁ。
今作のこの、心が弱い=他人の言葉に惑わされやすい、という即物的な表現も、最終回まで貫かれたのは凄いと思います!
初見時、台詞取りの2回目に続いて、感想まとめている現在進行形で胃が痛くなってきたのですが、ここで、 久右衛門が最後に好天から奪った封印の手裏剣が、緑色の変身手裏剣に姿を変える。
「爺ちゃんは、おまえを弟子に戻したかったんだな」
「そんな筈、あるわけがなぁい!!」
果たしてそれは、久右衛門の為の手裏剣だったのか……感情を露わにする久右衛門だが
「宿命から逃れる事など出来ぬ」
そこへ突如、幻月が出現。
「愚かなせがれよ。おまえとて我が野望の為の道具に過ぎん。それがおまえの、宿命だ」
幻月は久右衛門を吸収して巨大化。
「見よ! これが、これこそ我が真実なる姿」
長らくよくわからない存在だった幻月ですが、巨人族だったのか……。
「奥方の次は、久右衛門まで利用しやした!」
「酷すぎる!」
「家族を軽んじるなんて、許せません!」
いや霞さん、つい先ほど、その奥方を真っ二つにしましたよね?
身内を犠牲にする、というわかりやすい形で幻月の悪辣ぶりが強調され、良き師匠である好天と、 悪い父親である幻月が対比構造になるという120%無理のある展開なのですが、 牙鬼軍団に家族の情なんて見ていない筈のニンニンジャーが、幻月に対して倫理的批判をぶつけるので、ますます意味不明に。
とにかく、物語を成立させる為の最低限の基準が存在してしません。
ニンニンジャーは激熱を召喚して立ち向かうが、圧倒的な力を振るうジャイアント幻月。
「伊賀崎に生まれ、ニンジャとして我が一族に刃向かった宿命を、悔やむがいい!」
押し込まれる激熱だが、6人は限界を超えた力を振るう。
「悔やんだりするわけないです!」「例え違う家に生まれても、ニンジャになるんだから!」「僕らが今居るのは、 誰の意志でもない!」「俺たち自身の意志で、ニンジャになったんだ!」「宿命なんて、関係ありやせん!」「久右衛門だって、 俺たちと同じなんだ! 俺たちは――」
「「「「「「ニンジャだ!!」」」」」」
復活してからずっと「宿命」を連呼する幻月に対して、ヒーロー達はとっくに宿命を乗り越えてやりたい事をやっているだけ、 という構図で悪の滑稽さを描きたいというのはわかるのですが、 そもそも天晴以外の5人がここまでニンジャ好きになった過程がさっぱり描かれていませんし、 6人の言うニンジャは忍タリティという名の宿命に紐付けられた才能に担保されているので、 むしろ宿命を否定するヒーロー達の方が滑稽になりかねない勢い。
この叫びに巻き込まれた久右衛門は幻月の体を抜け出し、弱体化した幻月はフィーバーを食らって大爆死。 この適当な死にっぷりも某機動刑事を思い出させます(笑)
「伊賀崎の、者達……悔しいが…………僕の、負けだ。お師匠……」
<終わりの手裏剣>を見つめた久右衛門は、好天の幻影に導かれ、消滅する。
いっけん、久右衛門が血統の宿命を乗り越えているように見えるのですが、 単に「ラストニンジャワッショイ」という今作における正義の価値観に飲み込まれた(元からそうだった事に気付いた)だけなので、 改心とか救済とかいうより、同一化。そしてその同一化が「善」であると描かれているのは、今作クライマックスで、正直気持ち悪い部分。
「幻月を倒しても、この世界を滅ぼしに、また妖怪が来るようですね」
幻月が消滅するも未だ闇のわだかまる街を見つめて霞が呟き、幻月の末期の台詞を含めていきなりの意味不明な設定なのですが、 そこへ飛んでくる<終わりの手裏剣>。6人で一つのラストニンジャと認められたニンニンジャーは、 世界を救う為に<終わりの手裏剣>を発動しようとする。その願いは――
「<終わりの手裏剣>が無い世界、だな」
そもそも<終わりの手裏剣>が無ければ、世界を滅ぼす事も出来ない筈、という考えに至る天晴。
「それは、<終わりの手裏剣>を所持してこそ初めて存在する、ラストニンジャ自体が消えるという事になります」
「そうだよ、ラストニンジャになる夢が無くなっちゃうんだよ?!」
いや君達、何言ってるの?
この期に及んで、世界の危機とラストニンジャという形式的名称を天秤にかける伊賀崎家の人たちの脳がヤバい。
「わかってるよ。でも、やらなきゃどうにもならないだろ」
「ラストニンジャの歴史を変え、爺さんとは違う道を行くと決めた以上、覚悟は出来ている」
体裁としては神の居ない世界の創造、といった展開なのですが、それをご近所感覚に落とし込んで面白くなっているとはとても思えず、 物事の判断基準がラストニンジャで止まっている伊賀崎家の人たちの脳がひたすらヤバいです。
そして最後の最後まで、今作得意の設定のすり替えが炸裂し、 ラストニンジャになると<終わりの手裏剣>を使って願いを叶える話と化した物語は、<終わりの手裏剣>の無い世界の誕生により、 平和を取り戻すのであった――。
こうして6人は、ラストニンジャという価値観を刷新して乗り越えた……ように見えるのですが、 直後に「ニューラストニンジャ」とか言い出すので、何も変わりません。みんな、「私のラストニンジャ」に辿り着いて良かったですね、 あっはっはっはっはっは…………。
そして天晴が手にした緑の手裏剣に向け
「生まれ変わっても、ニンジャになってこいよ」
と呟くという、トドメのモヂカラ大団円。
それはもう、呪いだと思うのですが。
赤、金、青、桃は再会を約してそれぞれ旅立ち、各自のその後がちらりと描かれるエピローグ。クレーン(ドローン?)を使って凄く高い所から、 山と海と街と空を一つの画に収めたラストカットは、中澤監督が意地を見せて良い絵でした。本編の内容とあまり関係ないですけど。
まあ別に、好天の価値観を6人が乗り越える物語でなくとも構わないのですが、それなら<終わりの手裏剣>のない世界、 にする事もないよなーと。
最終クールに来てあらゆる膿が噴出し、盛大なカタストロフで終局を迎えた今作ですが、最終的に何が一番良くなかったかというと、 「運命を乗り越えたり価値観を変革したわけではないのに、それを装っている」という事だと思います。
別に運命を乗り越えたり、価値観の変革が無い物語であっても一向に構わないのですが、今作は、実は何も変わっていないのに、 世界の根幹システムを刷新したから変化しましたーという形だけ取っているというのが非常にタチが悪い。
わかりやすい所で言うと、風花・凪・キンジのエピローグは、完全に爺ちゃんのメッセージをなぞっており、 ラストニンジャの敷いたレールに乗っているようにしか見えません。勿論、意図的に被せているのはわかるのですが、 今作でそこを意図的に被せると、爺ちゃんを乗り越えるとか自分の道とか全て空虚になってしまうので、 そこはむしろ意図的に被せてはいけなかった所だと思うのです。
キンジに至っては、妖怪ハンターのよの字も思い出さずに、ワールドワイドなニンジャの道を歩んでいるわけですが、 妖怪が好きだった事すら忘れてしまったのでしょうか。 キンジに関しては途中で設定を大幅変更せざるを得ない事件でもあったのだろうかと疑いたくなりますが、 妖怪ハンターが何か商標でも引っかかったのか。
この「何かを変えたように描いているけど、実は中身が全く伴っていない」というの今作全体で頻発する問題点(数少ない一貫した部分) なのですが、そこを見せかけで誤魔化すというのはつまり、視聴者への不誠実だと思うのです。
同時期同テーマで、逆に視聴者への誠実さを貫き通して成功した作品(『GO!プリンセスプリキュア』)があっただけに、 どうしても比較してしまうのは一つの不幸ではありますが、場当たり的な展開を繰り返した末の不誠実な作品というのが 『ニンニンジャー』に対する、総評です。
出来が悪いなりに作品として何か貫く軸があればまだ良かったのですが、それさえ無かった作品。個人的には、 これまで見た戦隊シリーズの中で、最低クラスの評価。
細かい要素では、ラスト2話、獅子王の出番が一切無し、というのも地味に酷かったところ。 レギュラーではないのでスケジュールの問題があって、むしろそれで第41−42話でやたらに活躍したのかもしれませんが、 一切言及も無ければ超絶も使われないという扱いの酷さで、精霊は家族でないからシカタナイ。後ポンチョも存在消えていましたが、 何だったのかポンチョ。
この辺り、テーマ部分だけでなく、ロボット含めギミック部分も最終的に凄くおざなりだったのは、 制作体制がどういう状況になっていたのか少々気になる所です(^^; 明らかに演出陣に、 細かいフォロー入れようみたいな姿勢が映像から感じられませんでしたし。
次作『動物戦隊ジュウオウジャー』で、どんな絶望の中からも夢が生まれる事を祈りたいです。
「この星を、なめるなよ!」は結構格好良かったので、期待したい。
(2018年6月4日)
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