■特撮脳で見た『魔法少女まどか☆マギカ』■
“だって魔法少女はさ、夢と希望をかなえるんだから”
TOKYOMXの再放送で世間から1年半遅れで見た、『魔法少女まどか☆マギカ』の、特撮脳による特撮ヒーロー物視点からの感想。
ブログ「ものかきの繰り言」に書いていたものを、
一部加筆訂正してまとめたものです。
なお、きゅうべえの正確な表記「キュゥべえ」と打つのが非常に面倒くさかったので、文中では「きゅうべえ」で通しています。
たまにさん付けになります。
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◆第1話「夢の中で逢った、ような……」◆
とりあえずの感触としては……平成ライダーっぽい。
……えー、どういう事かというと、“ヒーローの立脚しうる新しいテーゼを作り直そう”というのが平成ライダー
(少なくとも『クウガ』からの初期作)の根っこにある思想性なのですが、何かそれと、似た匂いを感じました。
まあ、とっかかりの部分の感触なので、今後どうなるかわかりませんが。
構成としては基本的な日常→非日常パターンで、家族の姿→友達の姿→そんな日常に現れる謎の転校生→謎の生き物との遭遇→
忍び寄る非日常の危機→そして……というものなのですが、冒頭の夢(イメージ)シーンで黒い子をフィーチャーしておく事で、
終盤に黄色と黒の対立構造を置きながら、それを単純な敵対関係と見せないパッケージの仕方は秀逸。
◆第2話「それはとっても嬉しいなって」◆
……まずい、最初の取っかかりで平成仮面ライダーっぽいと思ってしまったせいで、もう、
平成仮面ライダーの文脈でしか見られなくなっている(おぃ)
まあ、「少年にとっての仮面ライダー」が、「少女にとっての魔法少女」だと思えば、仮面ライダーの文脈で見てもいい、のか?!
2話では、契約、魔法少女、魔女、ソウルジェム、など基本設定の説明。きゅうべえから契約を求められたまどかとさやかは、
命がけで魔女と戦ってまで叶えたい願いがあるかについて自問しつつ、まみの魔女退治についていく事で、
魔法少女の戦いを体験することになる。
「変身(契約)」の選択権を主役サイドに預けている、というのが、面白いところ。
特撮ヒーロー物の場合は商業的都合により、「変身する」のを絶対的前提に置かないといけない為、「変身すること」
そのものではなく「変身した後」にしか物語を始められないわけですが、深夜帯のアニメという媒体
(玩具ではなくソフトセールスが主目的の媒体)により違うアプローチが可能になっている。
例えばこれが特撮ヒーローだったら(そもそも引き比べるものではないのですが、脳がそう見てしまっているので、
そういう視点の感想だと思って諦めていただければ幸いです)、きゅうべえを見る力があるという理由で強制的に変身(契約)
させられるか、巻き込まれた戦闘で大ピンチになってどさくさで変身(契約)する、というのを第1話まででやってしまうわけです。
で、この力を手に入れたからには戦うしかない、だったり、変身(契約)した自分は戦うべきなのか、戦うのなら何の為に戦うのか、
という話になって、物語は、“力を手に入れた所”から展開する。
ところが今作の場合は一つ間を置いて、その一歩手前、「契約するべきか否か」という所に最初の物語性を置いている。
また再び世界を緩めた日常に戻す事で、「変身するか否か」(類例:「ロボットに乗るか否か」)
という選択肢をフリーハンドで与えており、これにより、「力」を手に入れる前に「理由」を提示する、という構造になっているのが面白い。
ここで秀逸なのがきゅうべえの提示する契約内容で、
「契約したら何でも願い事を一つ叶えてあげるけど、代償として魔女と戦ってもらわなければならない」
というのは、
願い事を叶える=個人性
人々を呪う魔女を倒す=ヒーロー性
という二つを並立させている。
旧来のヒーロー物では、ヒーロー性と個人の目的が無自覚に一緒くたであった場合が多く、これを分割して、
現代にヒーローが成立しうるにはその背景となる個人的な正義や欲が必要ではないか、
という思想性をベースに世界を構築しなおしたのが大雑把に<平成ライダー>なのですが、それが巧く構造的に取り込まれている。
同時に、“願い事を叶えるために魔女を倒す”のか“魔女を倒す(正義の行為の)ボーナスとして願い事を叶える”のか、
という矛盾しない主客の二面を、主人公の中で混線させているのが巧い。
ところで、平成ライダー3作目の『仮面ライダー龍騎』は、ミラーモンスターと契約して仮面ライダーになった者がライダーバトルに勝ち残る事で望みを叶える、
という基本設定だったのですが、この作品では、人類への驚異と仮面ライダーは存在するが、正義のヒーローは存在しない世界で、
“正義のヒーローになろうとする”青年が主人公でした。
終盤、その主人公の選択によって無駄な人死にが増える事になり、結果として物語的な因果応報により主人公は死亡し、
しかし死亡する事ではじめて“正義のヒーロー”として昇華される、というやりすぎた話で、個人的には後半がっくりだったんですが。
というわけで続く3話で、おそらく契約するであろう主人公達が、このまま小さな善意と正義の快感を契約の最大の「理由」とする形で描かれるのかに、興味があったり。
◆第3話「もう何も怖くない」◆
引っ張るなぁ。
2話のラストを受けて契約の流れになるのかと思いきや、引き続き「願い」について悩み中。さやかの事情に触れつつ、「願いとは何か」
という事について掘り下げていくという展開。
その後、病院で魔女の卵を発見して……という所で、結局さやかはどさくさで契約するのかと思わせておいて、やはり契約まではせず、
と巧くはぐらかしてきます。
この、展開を誘導しておいてちょっとずらしてくる辺りの呼吸は、実に巧い。
今度はこれを繰り返しすぎると見ている方のストレスになってくるので、どこでどうカタルシスに繋げてくるか。
微妙に詳細が小出しにされている「契約」は、先払い方式らしき事が判明。またきゅうべえの台詞から推察すると、「願いに応じて力の
強さが変わる」? 強く困難な願いほど、強力な力を発揮できる代わりに、月賦期間(魔女と戦う期間)が長いのか?
まだその部分――魔法少女は永続契約なのか? については、語られていませんが。
きゅうべえが油断ならない生き物らしい事は聞き知っていますが(具体的な事は知らない)、まだ「契約によるきゅうべえのメリット」
も語られてなかったり。
あと、きゅうべえがあくまでも
「願い事を言わせないといけない」
というのは、凄く古式ゆかしいルールに縛られているっぽくて面白い。
マミさんのあれは、放映当時にTwitterのTLなどで散々流れていたのでどんなショッキングシーンかと構えていたら、映像的には思った
より普通。どんな酷いシーンなのだろうと、脳内妄想だけが先行しすぎていましたよ! いや勿論ここでは、“3話にしてマミさんが
ざっくり殺られる”という展開そのものがショッキングなのであり、映像の話ではないわけですが。
ちなみにどれぐらい酷いものを想像していたかというと、まどかが魔法少女になる決意について語って、もう一人じゃありません、
と言われて涙を流して微笑む辺りで、背後から首ちょんぱ、ぐらいの展開だと思ってドキドキしていたとか。
そしてやっぱりマミさんのこの辺りの台詞なんかは、魔法少女の皮をかぶった、90年代までの特撮ヒーローを鏡面として世界観を
再構築した、00年代特撮ヒーロー的。
もっとも、少女向けアニメなどにはまるで造詣が無いので、そちらの世界では既にこういった世界観が構築され済みだったのかも
しれませんが。
誰か全面的に造詣の深い人が、〔『仮面ライダークウガ』以後における、00年代の戦隊・ライダー・そしてプリキュアにおける
東映ヒーロー像〕、とか、まとめてくれないものか。
ところで話はずれますが、90年代以前に、特撮ヒーロー物の定義に疑問を持つ特撮ヒーロー作品、が無かったかのかといえば、
個別の作品に関しては決してそんな事はありません。あくまで、定型的な全体モデルの話として、大きなブレイクスルーを発生させたのが
『仮面ライダークウガ』、という話。
その延長線上に位置すると思われる今作の主人公が、“自分に自信を持てない平凡な女の子”という古典的な少女マンガテーゼに
乗っけられてきた、というのも面白い所。秘めた資質の大きさこそ語られますが、まどかはあくまで平凡な少女であり、平凡ゆえに
「憧れ」を願いとする。
するとここで、「平凡な少女が憧れの存在に変身する」というオーソドックスな(?)魔法少女ものの構造が顔を出す。
となると、少女的な世界観で憧れの対象となった魔法少女、しかしその魔法少女は極めて少年的な世界観に立脚するヒーローであった、
というキメラ的な融合がここで起こったのではないか。
その「憧れ」のリタイアにより物語がどう転がるかもわからなくなってきましたが、この化学反応がどこへ行くのか、だんだん面白く
なって参りました。
◆第4話「奇跡も、魔法も、あるんだよ」◆
マミさん死亡、という序の部分を終えての展開編、という事でか、今ひとつ面白くありませんでした。
多分これは、さやかの事情に関して私が割とどうでもいい、というのもあるかとは思いますが。
単純に言って、不治の病(に類するもの)というのは、“ズルい”ネタなので、使われるどうしても構えてしまいます。
その上で、そういう背景を持ったヒロインに単純にときめければ話はまた変わるのでしょうが、そういう点では今作は総じて私の
守備範囲からは大きく逸脱しているので、そういうときめきは無いしなー(笑)
というわけでどちらかというと、“ズルい”のはわかってて敢えて使ってきたであろうこのネタの、今後の転がし方に注目。
物語の方は、さやかの魔法少女化と、新たなる魔法少女の登場、という所で次回に続く。
◆第5話「後悔なんて、あるわけない」◆
◆第6話「こんなの絶対おかしいよ」◆
前回、さやかが魔法少女化。そして新たな魔法少女が登場……というところで、5話前半は、さやかとまどかのやり取りとか、
ヴァイオリン少年の快復とか。正直、この辺りは割とどうでも良い。どうにも、さやかが私の中でピンと来ない、というのもありますが。
そして魔女探しに出たさやかの前に現れる、赤い魔法少女、杏子。
「魔女を倒す為なら、人間が何人か犠牲になったところで知った事じゃない」
と言う杏子にさやかは怒りを燃やし、二人の魔法少女が激突。
ダークヒーロー登場で、面白くなって参りました。
なるほど、前回ラストで明らかにきゅうべえが杏子を招き寄せていたのは、彼女の存在を利用して、まどかに契約を迫る為でしたか。
そこへほむらが乱入し、戦いは水入り。
しかしほむらは、どうしてざっくりきゅうべえを狙うのを止めてしまったのでしょう? マミさんの居ない今、さくっと殺れそうな気は
するのですが。まあ、下手につつくと、きゅうべえを守ろうとして、まどかが魔法少女になるという可能性も有り得なくないので、用心
しているという所か?
6話、杏子と取引するほむら、さやかとまどかの微妙なすれ違い、など、杏子の登場で物語は大きく動き出す。ヴァイオリン少年が
退院するもさやかはそれを知らされていなかったりでこれも微妙な心の隙間が描かれつつ、再び対決しようとするさやかと杏子。そこに
乱入したまどかがさやかのソウルジェムを取り上げて眼下の道路に放り投げると、ソウルジェムは通りすがったトラックの荷台に着地し、
そのまま時速数十kmで離れていき……糸の切れた操り人形のように倒れるさやか。
その体には……鼓動が無い。
なんと魔法少女にとって人間の肉体は“器”でしかなく、その意識と魂はソウルジェムこそが本体。故にソウルジェムから100m程度
離れると、器である人間の肉体は活動を止めてしまうのであった。
「魔女と戦うのに脆弱な人間の肉体では不利が多いから、ソウルジェムにコンパクトにまとめているのさー。だから
出血多量でも体のパーツが一つか二つ吹き飛んでも、魔力さえあれば修理できるから便利便利ー」と、のたまうきゅうべえさん。
しかしきゅうべえさん、「腕の数本ぐらい千切れても大丈夫!」という事は先に教えておかないと、戦術上、役に立たないような
(観点違う)。
ベテランらしい杏子はそのぐらいの事は知っているのかと思いきや知りませんでしたし。
そして、きゅうべえが真相激白して揉めている中、一生懸命トラックを追いかけているほむらさん。
なんかデジャヴあるなぁと思ったら、『輪るピングドラム』で冠葉兄さんがペンギン帽子を追いかけていた時か(笑) 後先云々する
気はなく、単純に、こういうシチュエーションが被るというのは、ちょっと面白い。
きゅうべえはなんというか、戦隊ものなどにおける
「(ネタ的に)黒げな長官・
博士ポジションが、本当に黒かった」
だなー(笑)
正義のヒーローにスカウトされて、サイボーグにされました。
ジャッカー!
個人的にネタとして好んで長官陰謀説は唱える方ですが、実際にやると、色々と洒落になりません。
なお、70年代特撮ロジック的には、任意・強制を問わず、「ヒーローになる」と「人間でなくなる」は、かなり同義なので、
魔法少女が“人間の器”を捨てるというのは、こんなの絶対におかしいというわけでもなかったり。
まあ、きゅうべえさんの説明無し事後承諾は、やり口としてはかなり酷いですが。
そんなわけで、“ヒーロー性と人間性の葛藤”という00年代世界背景の中に、“ヒーローだったら人間止めても仕方ないよね?”と
いう70年代ロジックをぶち込んできた飛び道具っぷりが、続けてどう転がっていくか、期待。
◆第7話「本当の気持ちと向き合えますか?」◆
きゅうべえさん、
「今更泣き言ぬかすんじゃねーよ」
モードに入る。
一方ほむらの説明によると、きゅうべえは論理の土台も倫理観も人間とは全く別の生き物であるが故に、悪い事をしているとは全く
思ってないのだという。
この辺りは、SF的なファーストコンタクトテーマの要素が混ざってきていて、面白い。
まあ、中学生女子にその辺りを冷静に判断しろ、と言ってもどだい無理な話ですし。
自分が“人間ではなくなった事”に打ちひしがれるさやかの前に姿を現した杏子は、己が魔法少女になった経緯を語る。
短い時間で視聴者に感情移入させるという目的もあるのでしょうが、マミさんの瀕死といい、割とシンプルに同情しやすい設定が多い。
まあ、そうしないと悲劇性も出てこないのですが。
その経緯ゆえに「自分の為に力を使う」と言う杏子に、もう後悔はしていないと告げたさやかは、あくまで力を「他人の為に使う」と
宣言。二人の敵対関係は緩和するものの、協調には至らず。
翌日、ヴァイオリン少年が復学。声をかけられずじまいのさやかを見たひとみは、放課後に彼女を一対一で呼びだし、「明日の放課後
に彼に告白するから、自分の気持ちに素直になるなら猶予と優先権をあげやう」と宣戦布告。
ヴァイオリン少年に告白すれば勝てると確信している、ひとみちゃんが恐ろしい……!
しかもこれ、仮にさやかが先に告白して勝利を収めたとしても、常に自分に優先権を譲ったライバルが眼下で牙を研いでいるという
プレッシャーを受け続ける、という十重二十重に張り巡らされた奸計! 恐るべしひとみの罠! げげーっ!
もはや人間ではない自分は彼に告白など出来ないとまどかに嘆きを吐露しつつ、魔女探しに向かうさやか。いっけん前向きに現状を
認めたかに見えたさやかは、出会った魔女との戦いで、肉体の痛みを本当に制御できる事を自ら確認しながら、血を流し、哄笑とともに
魔女を嬲り殺す!
……なるほどなるほど、さやかは、「奇跡の代償に対して絶望した事」や「友人に対して悪意を抱いた事」を己自身で赦す事が出来ない
が故に、自らを“純化した正義の味方”と置く事で許容するというキャラクターなのですね。
ここに持ってくる為に、さやかはここまで、やや肩肘張った強い正義感の持ち主、として描写されてきたのか。
言うなれば、“赦せない”正義。
現状、魔女を倒す、事が正義のルールとして設定されているからいいけど、たぶんちょっと間違った方向にベクトルを与えると、
とんでもない方向にすっとんでいく、ジャスティス・バーサーカー。
演出もそういう描写でしたが。
こうなってくると、どちらかといえば受容するキャラとして描かれて、ここまで変身を引っ張りまくっているまどかは、きゅうべえの
思惑通りに魔法少女化するとも思えないし、ヒーローになるというよりも、何らかの形で物語上のテーゼの超越者として置かれるのかなぁ。
◆第8話「あたしって、ほんとバカ」◆
◆第9話「そんなの、あたしが許さない」◆
血まみれになりながら魔女を狩り、まどかにまで憤りをぶつけるさやか。
急速にソウルジェムが汚れていく彼女に「使いなさい」と言いながら、何故わざわざ「はいつくばって拾え」みたいな足下にグリーフ
シードを投げつけますか、ほむらさん。
助けを拒否したさやかを思いあまって自ら殺そうとするほむらだが、寸前で杏子に止められる。
一方、学校にも来ないさやかを探し続けるまどかは、自分の力ならさやかを助けられるというきゅうべえの甘言に契約寸前まで行くが、
ほむらがそれを止める。(またここで、ほむらがきゅうべえを攻撃するのを辞めたのは、きゅうべえの肉体を殺しても替えが効くという
事を知った為と判明)
そして街をさまよい、自分の戦う意義を見失っていったさやかのソウルジェムは真っ黒に染まり……ソウルジェムは黒いグリーフシード
に変質、さやかであったものから、魔女が生まれる!
――この国では、成長途中の女性のことを、少女、って呼ぶんだろう? だったら、やがて魔女になる
君たちのことは、魔法少女と呼ぶべきだよね。
定番化した用語に作中で新たな意味付けをして、それを物語の重要な要素として取り込む、というこれは面白い。
先にさやかを“純化した正義の味方”と書きましたが、とすると今回の展開は、
「純化された正義の味方は存在しえるか?」
「否」
そして
「そんな正義の味方はやがて狂っていくしかないのでは?」
という話かなーと。
元来、ヒーロー物における“正義の味方”というのは、“正義の裏付け”としての“大衆の無条件(無自覚)な支持”というのが前提と
なっていて、ゆえに70年代にそこからひねっていったような作品(『シルバー仮面』『鉄人タイガーセブン』など)は、カルトとして
評されている場合が多く見受けられます。
で、やがてその“無自覚な前提”が、作り手にとっての“無自覚な前提”になってしまったのを、もう一度見直して“正義の
裏付け”をやり直そう、としたのが00年代の東映作品群。
それを踏まえて、では、そういう“正義の裏付けが確約されていない世界”=“己自身が理由を見つけなければ正義の味方になれない
世界”で、「純化した正義の味方」になろうとした者が辿る道を、時間の都合で超高速に圧縮し、「人間ではない」事と「正義の理由」
を並立しえなかったさやかは、いわば、自らの正義に押し潰された形で、破滅。
この「壊れゆくヒーロー像」としてのさやかは、なかなか面白かったです。
時間をかけて、徐々に世界へ絶望していくさやか、なんていうのも見たかった気はする。
そして語られるきゅうべえの(真の?)目的。
きゅうべえは、地球とは別の惑星に済む高度な知的生命体の種族インキュベーターであり、インキュベーターは、宇宙全体の
エントロピーの増大に対抗するエネルギー確保の手段を研究していた。研究の末、感情からエネルギーを取り出す技術を開発した
インキュベーターであったが、彼等には、感情というものがない。そこで宇宙全域の惑星を調査した結果、この太陽系第三惑星に住む
人類という種族が、感情の力と繁殖能力のバランスとして、非常に効率の良いエネルギー供給源となる事を発見。
その中でも特に、第二次性徴期にある少女達の希望が絶望に転化する瞬間が、最も莫大なエネルギーを発生させる。
その為にきゅうべえは奇跡と代償に少女達と契約して魔法少女とし、彼女達のソウルジェムが絶望によってグリーフシードに転化する
瞬間の感情エネルギーを集めていたのである!
そして、現在のきゅうべえの最大の目的は、きゅうべえにも計りがたい凄まじいソウルの力をもつまどかを魔法少女にする事……
ひいては魔女とする事で、絶大なエネルギーを得る事にあった。
インキュベーターの能力があってこそではありますが、凄いエネルギー搾取システム。
今作の設定に合わせて理由づけの謎解きになっていると同時に、繰り返される戦いそのものに、超越者視点の目的が存在する、という
メタ的なネタになっているのも面白い。
おそらく地球人の人権にもっと配慮した入手方法もありそうなのですが、最も効率的な方法を躊躇なく選択している辺りも良い。
この辺りは英米SF慣れしていると、宇宙生物の在り方として割とすんなり受け入れられるのですが、意識的にSFしているっぽいのも、
良いところ。
まあ、きゅうべえさんは、人間心理と隔絶している割には、人間をうまく転がしすぎな感はありますが。
翌日、さやかを取り戻せる可能性に賭けた杏子は、まどかとともに魔女さやかの元へ。しかし、まどかの必死の叫びも届かず、魔女
さやかは猛烈な攻撃で二人を窮地に陥れる。
戦闘シーンの背景が、ヴァイオリン奏者なのは、非常に悲しい好演出。
現れたほむらにまどかを託し、杏子はファイナルストライクを発動し、魔女さやかと相討ちしてリタイア。
ここで凄く残酷なのは、在る意味では自分の「欲望」を強く持っていたが故に生き延びてきた杏子が、さやかとの出会いによって
「正義の味方になりたかった」頃を思いだしたがゆえに、さやかと相打つという構図で、「ヒーロー性」と「人間性」の相克が、
ヒーロー性に傾いた時に終焉が訪れるという、物凄く悪辣な展開。
そしてこの戦いは、来るべき<ワルプルギスの夜>に対抗する戦力を減らし、まどかを追い詰めようというきゅうべえの巧みな誘導の
結果であった。
一人残ったほむらは、超弩級の魔女災厄<ワルプルギスの夜>を打ち倒し、きゅうべえの思惑を超える事が出来るのか?
怒濤の展開とともに、色々な謎解き。
どうやら、ほむらの行動目的の中心は、まどかにあるらしい事も見えてきます。
構成で言えば、1−3話:マミ編、4−9話:さやか・杏子編、10−12話:ほむら編、といった所か。
きゅうべえの語る「第二次性徴期の少女達が云々」というのは設定合わせの理由付けなので何とでもなるとして、ここに来て、女の子
コミュニティの特性が作品に取り込まれてきたのは面白い。
たとえば、さやかは友達ヒエラルキーにおいて、まどかに対する多少の優越感があったと思うし、そのまどかが魔法少女として圧倒的な
素質を持っているという事に対する劣等感が、別離の一因となった。
そして、ほむらから見たときに、片思いの親友(まどか)の親友(さやか)は、友達というよりも、時にむしろ憎しみの対象。
女の子コミュニティにおける、誰が誰の一番の親友なのか(百合的なものではなく)合戦が、それとなく入り込んでいる。
それにしても、3話まで、まどかはいつ魔法少女になるんだろう、という方向で進んでいたのに、気が付くとまどかが魔法少女でない
事がむしろ当たり前になっていて、最終盤になって、まどかを魔法少女にしない事がむしろ目的、みたいに転がっているのは、実に巧い。
◆第10話「もう誰にも頼らない」◆
あー、いやー、うん、これは、凄い。
正直に書きますが、『まどか☆マギカ』、それなりに楽しみつつも世間の熱狂的評価とは隔たりを感じていて、ライブで見ていないが
故か(多少内容も知ってしまっている)、キャラクターに対するときめき係数の差か、と思っていたのですが、この10話で、ガラリと
評価が変わりました。
ここまでが面白くなかったわけではないけど、その上で、全く評価の軸が変わった。
素晴らしかった。
基本的に、<魔法少女>ものをベースと置いて、シリアス・グロテスク・意外性などを散りばめる事で展開していた、本歌取り的な要素
の強い作品な為に、“魔法少女なのに……”“いっけんマスコットキャラなのに……”というインパクトの部分、刺激性を売りにした
ところが前面に出がちだったわけですが、この10話で、作品としての立ち位置が別の次元に入ったような、それだけの出来。
もちろん、ラスト2話を見ないと作品としての最終的な評価は出来ませんが、この10話で歯車が揃った結果、物語としての完成度が
抜群に高まりました。
繰り返される時間の中で、徐々に変化していくほむらと、ほむらの背負っていく運命、の描き方がとにかく巧い。
そしてタイムリープアイデアという簡単にメロドラマを作れるネタを取り込んだ上で、もっと重くて黒いものにしたのも凄い。
それもいっけん、メロドラマの構図に見えるまま。
いや久々に、物語の転がし方で、興奮しました。
地味で眼鏡で虚弱な、転校生・暁美ほむら――闘病生活による長い休学明けに入った中学で出会ったのは、保険係・鹿目まどか。
彼女は、魔女と戦う、魔法少女だった。
ほむらが魔法少女になった理由、そして様々な真実を知る理由、それが遂に明かされる――。
別の時間線?のまどかはやたらアグレッシブだと思ったら、既にきゅうべえと契約済みでした。
そして“もしかしたら有り得たかもしれない”マミさんとの夢のコンビと、ちょっとサービスしつつ……最終決戦を前にやっぱり
リタイアしているマミさん(^^;
圧倒的な<ワルプルギスの夜>を前に、「それでも、私は魔法少女だから。みんなの事、守らなきゃいけないから」と飛び立つまどかは
思いの外ベタな正義の味方をやっていて、特撮脳的には「僕は、僕はね、ウルトラセブンなんだ」を思い出してみたりしましたが、
力及ばず死亡。彼女達と行動を共にしていた(9話までにおける、まどかポジション)ほむらは、まどかの死体を前に泣きじゃくり、姿を
見せたきゅうべえと契約する。
「わたしは、鹿目さんとの出会いをやりなおしたい。彼女に守られる私じゃなくて、彼女を守る私になりたい!」
きゅうべえと契約した事により魔法少女となったほむらは時間線を遡り、まどかと出会う前のベッドで目を醒ます。
やり直しの世界、魔法少女としてタイムストップ能力を得たほむらは、まどかとマミの魔女退治に参加し絆を深めていくが、<ワルプル
ギスの夜>は倒すものの、力を使い果たしたまどかが魔女化。魔法少女の真実を胸に、ほむらは再び時間線を遡る……。
どうやら、「まどかを守る私になる」という部分が成立するまで、「出会いをやりなおす」という契約条件は発動するようで、ほむら、
超強力。きゅうべえさんは、この辺り、古典的に律儀。
魔法少女がいずれ魔女化する事など、きゅうべえの目的を仲間(さやか、パーティイン)に語るほむらだが、信じて貰えない。そして
さやかが魔女化、錯乱したマミは杏子のソウルジェムを打ち砕き、更にほむらに銃口が向けられた時、まどかの矢がマミのソウルジェムを
砕く。
ここはかなり意識的なシーンだと思うのですが、魔法少女となる前のまどかなら、仮にマミを撃つ事が出来たとしても、恐らく、二人の
間に割って入る、という選択肢を取ったのではないかと思います。
撃とうとした方を撃った、という理屈ではあるのでしょうが、魔法少女になる事で“ちょっぴり理想の自分”に近づいたまどかの中の
確かなエゴ、真っ白なだけではない少女の姿というのものが、明確に描写されているのは素晴らしい。
生き残った二人は<ワルプルギスの夜>に立ち向かうが共に力を使い果たし、魔女になるのを待つばかりとなったその時、まどかが
一回分だけ残っていたグリーフシードでほむらのソウルジェムを浄化する。
「あたしには出来なくて、ほむらちゃんに出来ること、お願いしたいから。ほむらちゃん、過去に戻れるんだよね。こんな終わり方に
ならないように、歴史を変えられるって、言ってたよね。きゅうべえに騙される前の、馬鹿な私を、助けてあげてくれないかな」
「約束するわ。絶対にあなたを救ってみせる。何度繰り返す事になっても、必ずあなたを守ってみせる」
ああ、ほむらは、死人と約束してしまったのか、と。
今作の真骨頂にして、10話の最も凄い所であり、決定的な歯車を埋めた大きな肝。
友情を一切否定しないまま、まどかの意図せざる残酷さとそれを受け入れるほむらの姿が描かれる事で、そこに乗せられた重くて黒い
ものによってメロドラマ構造を飛び越え、物語そのものまでが、別の領域に押し上げられた。
このシーンの為にまどかはマミさんを撃たなければならなかったし、そして彼女の台詞は、「みんなを」ではなくて、「馬鹿な私を、
助けてあげてくれないかな」となる。
決してみんながどうでもいいわけではないけれど、土壇場で、「私」というまどかがそこに居る為には、まどかは魔法少女ではなくては
ならず、そして彼女の願い(エゴ)を聞き入れたほむらの取る手段が、当然まどかを魔法少女にしない事となるからこそ、ほむらの戦いは、
絶望的で哀しい。
「もう一つ……頼んでいい?」
「うん」
「あたし、魔女にはなりたくない。嫌なことも、悲しいこともあったけど。守りたいものだって、たくさん、この世界にはあったから」
「まどか!」
「ほむらちゃん、やっと名前で呼んでくれたね、嬉しい……」
慟哭とともにほむらはまどかのソウルジェムめがけて引き金を引き、そして――
「誰も、未来を信じない。誰も、未来を受け止められない。だったら、私が……」
時間線を遡ったほむらは、武装を更に強化するとまどかと契約前のきゅうべえを抹殺。まどかを戦いに巻き込まないようにしながら
片っ端から魔女を撃破していく事でまどかの魔法少女化を防ぐ事に成功するが、<ワルプルギスの夜>に苦戦を強いられ……という所で
1話冒頭のまどか主観では夢のシーンに繋がり、まどかはほむらを救う為にきゅうべえと契約。魔法少女まどかは<ワルプルギスの夜>を
瞬殺するが、自身は“最悪の魔女”と化してしまい、ほむらは再び、時間線をさかのぼる……
「繰り返す……私は何度でも、繰り返す。
同じ時間を何度も巡り、たったひとつの出口を探る。
あなたを……絶望の運命から救い出す道を。
まどか……たったひとりの、私の友達。
あなたの、あなたの為なら、私は永遠の迷路に閉じこめられても、構わない」
そして再び……マミも欠け、さやかも欠け、杏子も欠けた時間線の先で、ほむらは<ワルプルギスの夜>と対峙する――!
少しずつ運命を改変しようとするほむらと、それに伴って彼女が知る事になる魔法少女の真実、背負っていく死、発生する事件や
登場人物の変化に合わせ、ほむらの性格の変質や、武装の強化などを合わせて二重三重に“繰り返される時間”を描いているのが、
単純にタイムリープものの演出として非常に巧いし、物語と噛み合って素晴らしい。
それにしても、
ゴルフクラブを振り回して戦うも駄目出し→火薬の調合を覚える
爆弾が危ないと駄目出し→ヤクザの事務所から重火器を奪う
ほむらさんがやたらにハードボイルドになってしまった原因の半分は、マミさんか!
で、この10話が凄い、というのは、伏線が解消されて謎めいて訳知りだったほむらの秘密が判明するのが鮮やかで巧い、とかそういう
レベルではなくて、ここまで10話、スタンスの見えなかったほむらの本当の目的が見えた時、
ほむらは
まどかのための正義のヒーロー
になりたかった
というのがわかる。
ここまでどちらかといえばインパクト重視の作風だったこの作品の、“真の物語(ほむらの物語)”が、これまでの展開を全てしっかり
呑み込んだ上で、真っ正面から叩きつけられ、9話までの全ての構造がハッキリと明確になる。
たった一人の為に、正義のヒーローになろうとした少女の物語
であったのだ、と。
そして、世界の為でもみんなの為でもどこかの誰かの為でもなく、たった一人のあなたの為に正義のヒーローになろうと
するから、ほむらは悲しくて滑稽で、しかし最高に格好いい。
という、この屈折したヒーロー観。
10話は本当に素晴らしくて、この作品を、一個の作品として高みに押し上げましたが、私は基本的に物語主義者なので、とにかく
“物語”をしっかりやってくれたという事は、非常に嬉しい。
これは別に9話までに“物語”が無かったというわけではなく、ただ、10話以前と以後では“物語”の質が全く変わった。
それだけ、10話で描かれ(それにより9話までを統合し)た、良い事も悪い事も嬉しい事も悲しい事も白い事も黒い事も守りたい事も
守りたくない事も、素晴らしい。
さて、こうなるとラスト2話或いは最終話は、“真の真の物語(まどかの物語)”になるのかなー。
ほむらはまどかを救えるのか? というよりもむしろ、まどかはほむらを救えるのか? という構図になっているわけですが、
きゅうべえさんも含めて、一種の復讐譚の要素まで盛り込んだ今作、どう決着をつけるか、楽しみです。
……
交わした約束 忘れないよ
目を閉じ 確かめる
押し寄せた闇 振り払って 進むよ
……
◆第11話「最後に残った道しるべ」◆
◆第12話「わたしの、最高の友達」◆
例のごとく、最終話の感想はほぼダイジェスト気味なので、ご了承下さい。最終回は二度見た上での感想。
前回を受けて、OP最後のカットでは、魔法少女5人が揃い踏み。
ほむらが時間遡行能力者である事に気付いたきゅうべえ、まどかの強大なエネルギーの秘密、さやかの葬儀、まどかに真実の想いの一端
を告げるほむら、そして遂に姿を見せる<ワルプルギスの夜>――!
11話は、前話が盛り上げすぎたという事もあってか、場つなぎの話といった感じで、ほむらさん大火薬祭以外、大きな見所はなし。
いちばんシンプルな手段ではあるのですが、作画を節約しようとするとすぐに、ズームイン・ズームアップの多用と顔アップになるのは、
以前にもあったけど少々いただけない。
きゅうべえさんの大袈裟な歴史話はここまで来てくどいかなと思ったのですが、後半〜次回の伏線になっていて納得。ただし見せ方が
上述の都合などもあってか、良くなかった。
恐らくどうも、歴史に蓄積された負の念の集合体っぽい<ワルプルギスの夜>にひとり挑むも、魔力もほぼ尽き、追い詰められるほむら。
時間を遡るしかないのか、しかし、それはまどかをますます因果の鎖に絡め取っていくだけかもしれない――絶望にほむらのソウルジェム
が漆黒に染まりきる寸前、彼女の前に、きゅうべえを伴ったまどかが姿を見せる。
「ほむらちゃん、ごめんね。私、魔法少女になる」
彼女の願い、それは――
「全ての魔女を、生まれる前に消し去りたい。全ての宇宙、過去と未来の全ての魔女を、この手で」
「その祈りは……そんな祈りがかなうとすれば、それは時間干渉なんてレベルじゃない。因果律そのものに対する反逆だ。君は本当に
神になるつもりかい?」
驚愕するきゅうべえの前に、まどかの決意は揺らがない。
「神様でもなんでもいい。今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいて
ほしい。それを邪魔するルールなんて、壊してみせる、変えてみせる。これが私の祈り、私の願い、さあ、かなえて、インキュベーター!」
まどかの体から浮かび上がったソウルジェムが光を放ち――
−−−因果地平−−−
マミの部屋でケーキをいただくまどか。
「希望をいだくのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう、言い返せます。きっといつまでも言い
張ります」
マミ、そして杏子に出会ったまどかは自らの決意を語り、そんなまどかに、マミは一冊のノートを手渡す。
それはかつてまだ、何も知らないまどかが、魔法少女になった自分の姿を夢見て落書きしたノート……。
「あなたは希望をかなえるんじゃない、あなた自身が希望になるのよ。私たち、全ての希望に」
−−−−−−
夢見た姿、魔法少女となったまどかは、因果律すら書き換える、光の矢を放つ!
「あなたたちの祈りを、絶望で終わらせたりしない」
世界を、時空を超えて、希望が絶望に転化しソウルジェムがグリーフシード化する寸前の魔法少女達を救済していくまどか。黒く
染まったソウルジェムはまどかによって浄化され、少女達は安らかな笑みともに消えていく。
「あなたたちは誰も呪わない、祟らない、因果は全て私が受け止める。だからお願い、最後まで、自分を信じて」
まどかの力により、時空を超えて生まれる前に魔女は消滅していき、世界を呪う心の消滅とともに、<ワルプルギスの夜>もまた、
崩壊していく。
初見の時はよくわからなかったのですが、まどかが、“魔法少女を否定しない”というのが、キモか。
や、魔法少女になる契約で魔法少女を否定するのは論理的矛盾が生じるかもしれませんが、まどかのやった事を見ると、もっと根源的な
ところから再構成できそうな気もするのですけども、まどかは魔法少女を否定しない、そこに生まれた祈りと希望を否定しない、希望から
絶望が生まれるとしても、また絶望から希望も生まれるものだから、という事なのかな、と。
あと割と唐突にここで「祟らない」という言葉が出てくるのですが(「呪い」という言葉は、以前から使われている)、とすると、
まどかの行為はいわゆる祀り上げ、御霊信仰に似た機構だという見方も出来るでしょうか。
魔法少女が御霊(怨霊)と化したものが魔女であり、まどかの祈る「全ての魔女を生まれる前に消し去る」というのは、魔法少女の
残念が霊威として災厄をもたらす前に鎮める、という解釈もありそうな気はします。
因果地平のマミさんに
「未来と過去と、全ての時間で、あなたは永遠に戦い続ける事になるのよ。そうなればきっと、あなたはあなたという個体を保て
なくなる。死ぬなんて生やさしいものじゃない。未来永劫に終わりなく、魔女を滅ぼす概念としてこの宇宙に固定されてしまうわ」
という台詞があるので、これはまどかが全時空的にエターナルなヒーローという概念になる、という事なのかな、と最初捉えたの
ですが、後の展開を見ていると、どちらかといえば魔法少女が発生させた魔女を滅ぼし続けるというよりは、魔女になる前に絶望を
掬い(救い)上げているという感じ。
実際、まどかの祈りは「全ての魔女を生まれる前に消し去る」なので、どちらかというと、マミさんの解釈が違っているのか。
この辺りは、インキュベーターの知見の限界、という要素が含まれているのかもしれません。
とすれば、鎮められた魔法少女達の魂は、彼女達が護りたかったものを見守る存在に転化していくのかもしれない。
ならばまどかは、その見守る魂の統合体ともいえ、いわば、全次元において何かを守りたいという思いと祈りを束ね、
あまねく鎮護しようとする巨大な祭神となる(きゅうべえの口にした「神」とは恐らく違う概念)、というイメージは個人的には
しっくり来ます。
魔法少女達の祈りを無駄にしない、という意味でも。
かくて<ワルプルギスの夜>は崩壊し、まどかの祈りによって因果律が塗り替えられた事で新たな法則の元に再構成されていく宇宙……
だが
「一つの宇宙を創りだすに等しい希望は遂げられた。それはすなわち、一つの宇宙を終わらせるほどの絶望をもたらす事を意味する。
――当然だよね」
その始まりに生じた巨大な絶望の前に、立ち向かうのは、アルティメットまどか(玩具のCMによると、そう言うらしい)!
「私の願いは、全ての魔女を消し去ること。本当にそれが叶ったのだとしたら、私だって、もう絶望する必要なんて、ない」
アルティメットまどかの放った矢の一閃は巨大な絶望を打ち砕き、彼女は、自らの因果をも超越する。
この辺りの論理は相変わらず、きゅうべえさんが律儀だと思う。
そしてつまりこれは、まどかによるまどかの御霊会なのかな、と。
自らが発生させる事になる怨念を自ら鎮める事で、まどかは、祀り上げられる。
(まどか、これで君の人生は、始まりも、終わりもなくなった。この世界に生きたあかしも、その記憶も、もうどこにも残されて
いない。君という存在は一つ上の領域にシフトして、ただの概念に成り果ててしまった。もう誰も君を認識できないし、君もまた、
誰にも干渉できない。君はこの宇宙の一員では、なくなった)
「何よそれ! これが、まどかの望んだ結末だっていうの! こんな終わり方で、まどかは報われるの?! 冗談じゃないわ!
これじゃ、死ぬよりも、もっとひどい……ひどい……」
始源の宇宙の混沌の中で、血を吐くように叫ぶほむらに、寄り添うように現れるまどか。過去・現在・未来、あらゆる時空を見渡し、
繰り返された時間線での出来事を理解したまどかは、ほむらを抱きしめる。
「今の私になったから、本当のあなたを知ることができた。私には、こんなにも大切な友達がいてくれたんだ、って。だから嬉しいよ。
ほむらちゃん、ありがとう。あなたは私の、最高の友達だったんだね」
誰からも忘れられて永遠の孤独はあんまりだと叫ぶほむらに、まどかは優しく告げる。
「ひとりじゃないよ。みんな、みんないつまでも、私と一緒だよ。これからの私はね、いつでも、どこにでもいるの。だから見えなくて
も聞こえなくても、私はほむらちゃんのそばにいるよ」
見えなくても感じられなくなっても忘れてしまっても、それでもいいのか、と泣くほむらに、まどかは、いつも身につけていたリボンを
手渡す。高次の世界の果てまで一緒に来てくれたほむらなら、新しい世界でも、自分の事を、覚えていてくれるかもしれない。
――それは、彼女達の新しい約束。
「大丈夫。きっと大丈夫。信じようよ」
「だって魔法少女はさ、夢と希望をかなえるんだから。きっとほんの少しなら、本当の奇跡があるかもしれない。そうでしょ?」
「いつかまた、もう一度ほむらちゃんとも会えるから。それまでは、ほんのちょっとだけ、お別れだね」
ここでしっかり、“魔法少女”を拾ったのは、素晴らしい。
笑顔とともに光となって消えていくまどか。
そして――
ヴァイオリン少年の演奏を、客席から見つめる意識体っぽいまどかとさやか。
因果地平に居なくて可哀想だと思ったら、ここで出てきました。なんか良かった……!
選択可能な因果律の中から、さやかの祈りを無にしない為に、ヴァイオリン少年を救うという因果を選んだまどか。さやかはそれを
受け入れ、彼の演奏する「アヴェ・マリア」を聴きながら涙を流し、昇華していく。
その結果として、
「逝ってしまったわ。円環の理に導かれて」
何かと戦っていたらしい、マミ、杏子、ほむら。そして力を使い果たし、消滅してしまった、さやか。
「希望を求めた因果は、この世に呪いをもたらす前に、私たちは、ああやって消え去るしかないのよ」
彼女たちはやはり魔法少女として戦っていた。
しかし魔法少女が魔女になる、というシステムはまどかの介入によって変更されている事が表現されます。そして、
「まどか……!」
リボンを握りしめ、まどかの事、改変前の世界の事を思い出す、ほむら。
それは、ほんの少しの本当の奇跡。
ある日、ほむらはまどかの家族と出会う(会いに行く?)。記憶も存在も無くなった筈の姉、まどかの姿を地面に描いて遊んでいる弟。
まどか、という名前に何とも言えない懐かしさを感じるという母。彼女は確かに消えてしまったが、いつでも、どこにでも、確かにそこに
居る。
すっきりした顔のリボンほむらさんはちょっと可愛い。
いわゆる、憑き物が落ちた顔が、ちゃんと作画で表現されています。
夜の街、ビルの上で街並みを見下ろしながら、きゅうべえ(!)に、改変前の世界について語るほむら。改変後の世界には“魔獣”と
いうものが存在し、どうも魔法少女はそれを倒す事で“呪い”を回収し、きゅうべえさんは感情エネルギーとしてそれを集めている模様。
「魔女は効率的だなぁ」というきゅうべえに、「あなた達との仲は険悪だったけど」と返すほむらですが、主に険悪だったのは、ほむら
さんだけだったと思います。
(――たとえ、魔女が生まれなくなった世界でも、それで、人の世の呪いが消え失せるわけではない。世界の歪みは形を変えて、今も
闇の底から人々を狙っている)
姿を見せる魔獣達を前に、ほむらは立ち上がる。
「今夜はつくづく瘴気が濃いねえ。魔獣どもも、次から次へと湧いてくる。いくら倒してもきりがない」
「ぼやいたってしかたないわ。さあ、行くわよ」
ほむらは魔獣に向かい、ビルを飛び降りる。
――哀しみと憎しみばかりを繰り返す、救いようない世界だけれど。
だとしてもここは、かつてあの娘が守ろうとした場所なんだ。
それを、覚えている。
決して忘れたりしない。
だから私は――戦い続ける。
ビルを飛び降りるほむらの顔の格好良さよ。
そして彼女は魔獣達に向かい魔力の弓を引き絞り――放つ。
完璧なエンド
(エンディング後のラストシーンも含めて)
本当に正直、Aパートの内はぶっとびすぎてどうなる事かと思い、改変世界でみんな何となく大団円に終わるのかとか、概念となった
まどかにほむらが一緒についていって二人で超次元存在になるのかとか、もっと観念的な感じで終わってしまうのか、それも悪くはない
けど風呂敷の畳み方としては好みではないなぁと心配していたのですが、改変後の世界でも彼女達が魔法少女として戦っているという所で、
あれ? と首をひねった所から、予想を遙かに超える形で、ヒーロー物として綺麗に着地。
決して、というかむしろ「しかし戦いは続く」というエンドが好きなわけではないのですが、辿り着くべくしてそこに辿り着いている。
「世界は改変されました」=「世界から悪という概念が消滅しました」
ではなく、相変わらず世界は歪みに満ちている。
人はそんなに都合の良い生き物ではない。
けれど、記憶を取り戻し、絶望しない揺らがぬ正義の理由を見つけたほむらは、そんな世界に抗い続ける事で、本物の正義のヒーローと
なる。
まどかの為のヒーローになりたかったほむらが、
まどかの為にまどかの愛した世界を守るヒーローになる。
――「いつかまた会える」という新しい約束を、胸に秘めて。
素晴らしく美しい着地。
さんざん屈折したヒーロー像を色々と盛り込んできた今作ですが、凄く正しいヒーロー物としてのエンド。そして何より、ほむらにとって
人生のトラップとなっていた「約束」を、ちゃんとまどかが更新しているのも、素晴らしい。これにより、改変前の世界で、まどかの為の
ヒーロー、として自分の望む結末に辿り着けなかったほむらが、それを認めた上で、新しい道を歩む事が出来るようになっている。
まあ、まどかにスポットを当てて考えると、実のところどうなのかしら、というのもあるかとは思うのですが、これ、“ほむらが本物の
正義のヒーローになる物語”と捉えると、凄く完璧な構成。
最終盤、まどかの為の正義のヒーローになりたかったほむらは如何にして救済されるのか、という所に焦点のあった私としては、凄い
大満足。
また、やっぱり10話なのですが、あの10話において、結果的にほむらを縛る事になった、まどかの無自覚な身勝手さが表現
された事で、いい子がいい子のまま世界を救う話という構造が回避され、「全ての魔女を、生まれる前に消し去りたい」というまどかの
祈りもまた、一つのエゴとして成立している。
物語の真の構造を明らかにした10話ですが、ただそれだけでは終わらずに、最終話の極めて重要な前置きとなっており、ほむらの物語と
まどかの物語を、構造的に繋いでいる。
かくて、「戦いは続く」けれど、それは「彼女に守られる私と、彼女を守る私の円環」であり、まどかもほむらも、そしてあらゆる
魔法少女達も、「ひとりじゃない」。
だから、ヒーローは、戦い続けられる。
お見事、としか言いようの無い構成、そしてヒーローという存在の補完。
正直、10話を見終えた所で、凄い作品になったけど、こうなるとラストはヒーロー物から離れるかなぁと思っていたのですが、
まさか、ここまで見事なヒーロー物を見せてもらえるとは、思いもよりませんでした。
素晴らしい。
それから、
「世界は改変されました」=「世界から悪という概念が消滅しました」
というのは、「それなりの物語を積み重ねて」「それなりの犠牲を払ったのだから」と、つい(厳密にはそうではなくても、そう
見えかねない形で)やってしまうのですが、それをやらなかったのは、作り手が世界に対して真摯であり、ひいては人間性に対して
真摯である、という事で、好印象。
同様に、改変後の世界にきゅうべえが存在している、というのは非常に重要。きゅうべえは人間から見たら「悪」と言えない事も無い
けれど、あくまで人間性から発生する善悪の概念とは別の所に居る合理性の生物なので、まどかの祈りの結果が、都合の悪いものを全て
消すという世界改変をしていない証左にもなるし、単純にきゅうべえを悪役にして済まさなかった事で、物語全体の構造が生きます。
萌え?とか魔法少女の皮をかぶっているけど、なんか平成ライダーっぽい思想背景(「“正義の味方”を語り直そう」)だなぁ……
という取っかかりで見ていた本作ですが、10話のジャンプアップを経て、物語としての完成度を高めた上で、独自に“正義の味方”を
語り直す事にも成功し、素晴らしい作品として着地しました。
ヒーローの持つ哀しさと滑稽さと格好良さを、これだけ詰め込んで表現してみせた作品も、なかなか無い。
それにしても、2011年というのは、くしくも戦隊史の集大成として『海賊戦隊ゴーカイジャー』が始まっていて、振り返ると
ヒーロー物の当たり年だったのだなぁ。『まどか☆マギカ』が『ウルトラマン』以降の特撮ヒーロー史をかなり意識的に踏まえている
(と思える)事を考え合わせると、そういう、時代のよくわからないタイミングが生んだ、共時性の年でありましたか。
以上、特撮脳による、“正義のヒーロー”という要素を中心軸にした視点の、『まどか☆マギカ』感想でした。
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